親鸞聖人は、本当の依り処を失って苦悩している私たちに、本当の依り処は阿弥陀如来の浄土であること、そこに目覚めて、そこに立って生きる道が「浄土真宗」であることを顕かにしてくださっています。そして、聖人はその道の要を「本願の名号に帰命して、本願を信じ念仏せよ。そしてそこに開かれる如来の浄土を依り処として、凡夫の身のままに、往生浄土の道を歩む人生(生活)を生きよ」と教えてくださっています。

しかし私たちは、すでに聖人の教えに遇い浄土真宗を歩んでおられる方のご指導をいただかなければ、聖人の教えに本当に遇うということができないのではないでしょうか。

その意味で私は、とくにお二人の方へのご恩を憶わずにはおれないのであります。

一九六五年に命終した父から「死すべき身の事実を直視して、不安と空しさ、さらに孤独な自分を見極めよ。そしてその闇の中にいる非常事態の自分を解決する道を求めよ」という、自分をはじめ、すべての人に共通している一大事の課題を解決せよ、との遺教をいただきました。私は父の死に会う何年も前から「自分はこれで本当に生きているといえるのだろうか」という漠然とした不安をもっていましたが、偶然、大谷専修学院の院長であった信國淳先生の「出会い」という文章を拝読し、いつか必ずこの方にお遇いし、教えをいただくのだと決意していました。ですから、父の遺教に遇った時「今がその時だ」という思いで、すぐに在籍していた学校を中退し、信國先生をお訪ねしました。

先生は、自分の立っている立場そのものに不信を感じつつも、聖人の教えを本当にはいただけないで、うろついている私を見とおして「君には勅命がない。だから帰命が決まらないんだ」とおっしゃいました。

そのお言葉が「本願の名号である南無阿弥陀仏に勅命を聞いて、本願に目を覚まして念仏しなさい」という、明確であたたかい教命として聞こえたとき、その先生の仰せの響きの中に「苦悩の本にある自力の心(全く根拠のない自己信頼の心)を棄てて、本当の依り処である我に目覚めよ」という南無阿弥陀仏の深い呼びかけを聞き、自分の立場そのものが、全くの間違いと知らされ、本願を信じ念仏する身にさせていただきました。

「信心がはっきりしたところから、生涯をかけた本当の学びが始まるんだ」という先生のお言葉は、往生浄土の道を歩みなさい、と教え促してくださっているのだと思います。往生浄土の道とは、如来の浄土に支えられて、わが身と社会の現実と一つになって、そこでこそ浄土のはたらきを証していく道だと思います。

報恩講は、多くの先達の恩徳により今日の私たちにまで伝承されている、聖人の教えに共に出遇う場であり、御同朋としての出遇いと交わりを深める場であります。

長崎教区願生寺住職 岡村 廣慶