1994真宗の生活

1994(平成6)年 真宗の生活 3月
<おおそらごと>

蓮如上人は、汝はいかなる仏法を信じるかと問われたならば、「ただ、なに宗ともなき、念仏ばかりはとうときことと存じたるばかりなりとこたえよ」といわれ、「たとい牛盗人といわるとも、後世者ぶるな」、「仏法者とみえざる人のすがたを生きよ」と、くりかえし『御文』にさとしておられます。念仏者面をして得々としている身のいやらしさが思い知らされます。

信心をえるということは、生得の「煩悩具足の凡夫」のところに帰らされることでしょう。その「凡夫」とは、「いずれの行もおよびがたき身」が自覚ざれたひとのことで、親鸞聖人が「「凡夫」は、すなわち、われらなり。本願力を信楽するをむねとすべし」と切なくさとされるように、念仏もうすよりほかに道のない人生です。そして実はそのお念仏ひとつに、わが身を十全に生きることをしらされた、満たされた人生です。

誰の作か、なにもしらぬ身の幸おもうかすみかなという俳句のあつたことを思い出します。
そこには、ただ「南無阿弥陀仏」と、如来のはからいのままに生きる生涯があります。そのような人のことを聖人は、「まことのこころ」のひととほめておられるのです。

しかし蓮如さまはまた、「細々に信心のみぞをさらえよ、そのまますておけば、信心もうせそうろう」といましめておられます。

かなしい人間の性でしようか、聖人が「人の執心、自力の心はよくよく思慮あるべし」といわれるように、自力の「行」はきつばり捨てられた身であっても、自力の「心」はなかなかすたりません。そこに「善悪の字しりがお」の「おおそらごと」がかたちをあらわすのです。

禅の世界に「大悟百返、小悟その数を知らず」ということばがあります。わがこの貪欲、瞋恚の人生を念仏の道場として、常に信の一念に立たしめられる思いてあります。

『真宗の生活 1994年 3月』 「おおそらごと」「『同朋』から」