1999(平成11)年11月28日 高倉会館講演抄録「ともしび」第572号
講師 廣瀬 杲(ひろせ たかし)大谷大学名誉教授

「ともしび」512表紙1「宗教の混迷時代」

「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」というこの題は、ご承知と思いますが、『教行信証』の一番最初の「総序」と私たちは申しております、その序文に記されている親鸞聖人のお言葉から頂戴をいたしました。「穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に迷い、心昏く識寡なく、悪重く障り多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」(真宗聖典149頁)とあります。この「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」というお言葉から、何事かを私自身が考えていけるのではないかと思っているのでありまして、決してこのお言葉の解説をしようというようなことは考えておりません。むしろ親鸞聖人のお言葉をお借りして、自分の言いたいことを申し上げるといった方が正直な気持ちかもわかりません。

と申しますのは、最近よく新聞・テレビ等で報道されていることの中で、「宗教の混迷時代」という言葉が眼につき、それが私には随分気になっているのです。確かに「これが宗教か?」という疑問を持たざるを得ないような現象が、過激な形で私たちの眼に入ってまいりますし、そういう意味では、「宗教というのは、どこまでを宗教というのか?」ということさえ考えてみなくてはならない気が常々しているのです。

そういう「宗教の混迷時代」といわれる現代を生きております私たちにとりまして、宗教ということは、どのような事柄として位置付いていくのであろうか。それを「宗教の混迷時代」といわれるひとつの現代の特徴の中から尋ねてみたいというのが、今日お話したいことであります。

2 親鸞聖人の行信という言葉を通して、現代の宗教問題を考える

それで最初に言葉の約束をさせていただきたいと思います。お話していく上で、「宗教」という言葉を使いますけれども、決してきちっと言葉の定義を確かめて使っているわけではございません。「宗教」という言葉を通しながら、現代の問題を考えているということは確かにありますけれども、もう一つその根っこで、やはり親鸞聖人にお尋ねしたいということが、私の場合には一貫してあるわけです。要するに、親鸞聖人が「浄土真宗」という言葉でお確かめになった仏教、その確かめをくぐって、私たちがどのように、今日「宗教」と言っている事柄の内容を明らかにしていったらよいか、というのが私の申し上げたいことであります。

ただその時に、確かに親鸞聖人は『教行信証』をはじめとしてお書き残しになったお言葉のなかに、その混迷時代と言っている宗教についての批判、あるいはそういう現実を生きる人間という存在の問題をご指摘になっておられる。しかし何と言っても、親鸞聖人は800年も昔の方ですから、今日私たちが使っているような「宗教」という言葉は、お使いになっておいでになりません。ですから、同じだとは申しませんけれども、親鸞聖人が当時の仏教といわれている事柄に対して、厳しいお立場をおとりになったというようなことをも含めて、親鸞聖人のいくつかの言葉をもって、現代の宗教問題というものを考えてみたいと思っております。

特にこの「行」「信」という言葉ですが、私は今回、特に親鸞聖人が『教行信証』のなかでお使いになっている「行・信」というお言葉遣いの、極めて特徴的な一面をいただき直すことによって、「宗教」の問題というものを根っこから問うて見たい気がするわけです。それと言いますのも「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」と言われますが、これは普通に考えましても「行」とはお念仏です。「信」というのはご信心でしょう。私たちが学んでまいりました浄土真宗のおみのりで申しますと、この「お念仏」と「ご信心」そのものが「専ら奉える」、「ただ崇める」ということを言っておるわけでしょう。すると「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」とおっしゃるときは、なにか「行信に行信せよ」と言っているような、そういう感覚がするのも無理からぬことだと思います。しかしそれにもかかわらず、親鸞聖人は「専らこの道を行じ、ただこのことを信ぜよ」とはおっしゃっておいでにならないのですね。そうではなくて、その念仏・信心といわれている事柄を、「ただ崇め、専ら奉える」内容としてお確かめになっておいでになります。このことが、今日の講題に掲げさせていただいた趣旨であります。その「行・信」という言葉のなかで、私は宗教という問題を考えていきたいと思っているわけでございます。