8 「この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず」

そんな領解をしますと、すぐにまた念頭に出てまいりますのは、やはり親鸞聖人の『教行信証』の「行巻」のなかに、これも言葉の約束としてはどうもスムーズにいかないお言葉が使われています。それは「十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつる。これを他力と曰う」(真宗聖典190頁)というお言葉です。

「十方群生海」ですから、すべての生きとし生けるもの、ともに悩みともに苦しみながら生きている十方衆生、私たちですね。それに「この行信に帰命すれば」とおっしゃいます。これもさっきと同じような問題ですね、「この行信」というんですから。行と信は、荒っぽく申してしまうならば、帰命の道であり、帰命の心でしょう。そうすると、この場合も「この行信に帰命する」ということは、帰命を内容とする行信に帰命するというのですから、「帰命に帰命する」という、極めて奇妙な言葉になってしまうのです。

そのことを踏まえて、「この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず」と親鸞聖人はおっしゃいます。つまり「この行信に帰命する」、逆に申しますと、帰命するべき行信に遇い得てみたら、摂め取って捨てないというおはたらきを、その事実のなかで実感させていただける、と親鸞聖人はおっしゃるのです。

皆様ご存じのお言葉でありますけれども、「摂取不捨」という言葉ですね。「この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず」。敬語表現をとってますね。摂め取ってお捨てにならないというおはたらきです。「摂取不捨」というお言葉につきましては、『観無量寿経』に出てまいりますけれども(真宗聖典105頁)、『大無量寿経』のなかでも大事なお言葉であります。

親鸞聖人のお書き物を拝読いたしますと、右側には読み方が書いてあって、左側にはそのことについての親鸞聖人の独特のご了解を記述してあって、「このように私は了解をしている。だからあなたがたも、このように領解したらどうですか」と、そのようなことをなさいます。それを「お左仮名」、「左訓」と申しております。

『阿弥陀経』を中心とするご和讃がございます。その一番最初が「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(真宗聖典486頁)ですね。ここでは「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とおっしゃるわけです。その「摂取」という言葉について親鸞聖人は、独特のご了解を述べておいでになります。まず「摂取」ということは、「ひとたびとりて、ながくすてぬなり」(『定本親鸞聖人全集』第2巻51頁参照)と。一度包み取ったならば、「おまえ駄目だ」というふうに捨てるということは永遠にない。そういうみほとけのお心が「摂取」というお言葉に表されています。

ところが親鸞聖人は、そのことを言うために非常にご苦労になって、「摂取」の「摂」という字は「もののにぐるをおわえとるなり」とおっしゃっています。「もの」というのは、物質ではございません。衆生のことです。十方群生海、生きとし生けるもののことです。それを仏教の場合「もの」と言うのです。その「もの」がみほとけの「摂取」、「ひとたびとりて、ながくすてない」というおはたらきのなかにありながら、そこから逃げ出そうとするというのです。逃げ出そうとするのを、「まあ逃げていくやつはしょうがない。去る者は追わない」というのではなくて、追いかけていって連れ戻す。まあ、親鸞聖人もユーモアのある方だと思いますけど、そんなふうにおっしゃっておられますね。

私たちは、「ひとたびとりて、ながくすてない」という摂取のおはたらきのなかに、これからじゃなくて、いつかでなくて、いま現に、いつでも、その事実の中で生きているにもかかわらず、その事実に背反して逃げ出そうとするのです。逃げ出そうとするということが、実は私たちの如来に対する反逆なのですね。ところが反逆された如来は、その逃げ出そうとする衆生を、「もののにぐるをおわえとるなり」というのですから、追いかけてきてまでして摂取のなかにおさめる。親鸞聖人は、ここまで平易なお譬えを通しながら、摂取ということのもっている積極性をお示し下さったのだなぁと私は思います。

大ざっぱに言って、私たちが阿弥陀様のお救いと申しますとき、だいたい阿弥陀様というお方がおいでになって、私たちが一生懸命念仏を行じ、信心を一つにするならば、そういう衆生を摂め取って下さるのだ。だからありがたい。と、こういうふうになってくるのではないですか。

ところが親鸞聖人は、そうはおっしゃらないのです。すべての生きとし生けるものが、この行信、お念仏・ご信心に帰命をするならば、その帰命するところに、摂取不捨のおはたらきを知らせていただける。そこに阿弥陀仏と名づけたてまつるみほとけの現実があるのだと。みほとけがおいでになって摂取不捨をなさるのではなくて、その一切衆生を救うというおはたらきをもって、阿弥陀仏と名付けたてまつるのだと。それを他力というのだと、こうおっしゃっています。結局は、生きとし生けるものが帰命する行信に遇うか遇わないか、ということですね。

9 回向—真宗救済の原理

そういう親鸞聖人のご領解、ちょっと言葉を詰めて申しますと、真宗の救済の原理。その原理をそのように表現なさったといたしますならば、その表現なさったことを一言で申しますと、それが「回向」ということだと言い切っていいと思います。

その「回向」という、親鸞聖人にとっては非常に大事な、ある意味では親鸞聖人が浄土真宗と仰ぐ仏道にお遇いになる根っこに位置付けられるこのお言葉が、正直申しますとよく分からない。けれども、今回このようなことを、ああでもないこうでもないと自分で考えておりましたとき、はっと思いました。それは「回向」ということについて、親鸞聖人が、言葉の約束としては一見矛盾に近いような表現を敢えてとっておいでになるところに、「回向」の本意を聞き取っていかなくてはならない、と気付いたのです。

実は、親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」ではっきり「もしは行・もしは信、一時として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし」(真宗聖典223頁)と言い切っておいでになります。信であろうと行であろうと、そのすべてが阿弥陀如来の回向成就したもうところでないものはひとつもない、とおっしゃるのです。ということは、阿弥陀仏の回向成就の事実が行・信といわれることなのだ、というふうに親鸞聖人は敢えて念を押しておいでになるのです。私はこの「清浄願心」という言葉に大きな感動を覚えるのです。そういう願いをもって衆生を救おうと思い立たれた阿弥陀如来のお仕事が「回向」ということであった、と。

そして「回向」というだけではなくて、「回向成就したまうところにあらざることあることなし」と丁重な表現でおっしゃいますけれども、それは回向だという説明をしておいでになるのではないのです。阿弥陀如来の回向が成就した、その成就した事実を行・信として私たちはいただくのだと。阿弥陀如来が行と信とを回向して下さったのだ。それが「もしは行・もしは信」、行であろうとも、信であろうとも、ひとつとして阿弥陀如来の回向の成就の事実でないものはない、ということです。回向だとおっしゃるだけではない、たまわるんだということだけではない、たまわりたることが成就した、完成した、そのことを行・信とおっしゃっている。実は、私たちがたまわった行と信とは、それは私(わたくし)化してはならないもの。はっきり申しますと、その行信で助かるということは、その行信に私たちが帰命し、帰依し、専ら奉え、ただ崇める、そういう私に再生したとき、初めて私たちの上に念仏・信心というふたつの言葉で表現される行信が、救いの根本に位置付けられてくるのだと、そのように明瞭に領解できると思います。

今、はっと気付いたのですが、曽我量深先生は「回向とは表現である」と言われましたね。とすれば、行・信こそ阿弥陀如来の表現に他ならない。即ち、行・信こそ阿弥陀如来の回向成就、即ち表現の完成態でありましょう。従って、決して阿弥陀様がどこかにおいでになって、手を出して引っ張って下さるんだというふうに考えが傾いていかないように、親鸞聖人の非常に厳密なお言葉を、もう一度拝読し直していかなくてはならないと思います。