ある東京のお医者さんが、次のようなことを新聞に書いておられました。

大学受験ということで、一所懸命、夜遅くまで勉強している高校生の息子さんに、お母さんも付き合っておられ、そろそろお腹がすいたのではないかと思って、夜食にラーメンを作って持って行かれたわけです。そして、ラーメンを机の上に置いて、背中越しに「がんばってね」と声をかけられたのです。すると、その息子さんは、「これ以上、どうがんばれっていうんだ」という罵(ば)声(せい)とともに、自分のために作ってくれたラーメンを、ドンブリごとお母さんにぶっかけたというのです。それからお母さんに対する暴力が始まって、困り果てたお母さんは、あるカウンセラーを訪ねておられるのです。

そのことを聞かれたお医者さんは、「この母親、自分が息子にやってきた長年の暴力には気づいていない」と言われるのです。ふつう「がんばってね」という一言がなぜ暴力なのか、まったくわかりませんですね。そのことを、「『親の期待で、子どもを縛(しば)る』という『やさしい暴力』『見えない虐(ぎゃく)待(たい)』」と言われます。どう思われるでしょうか。

つまり、この「がんばってね」という言葉は、ある場面では、「私の思いに適(かな)う自慢の子どもになってほしい」と聞こえるのですね。だから、子どもも親の期待をかなえるような子どもになって、ほめてもらおうとがんばるわけです。ところがどんなにがんばってもできないということがあります。

そういう中で、この言葉を聞くと、「もしも期待どおりの子どもでなかったら、私は、あなたを私の子どもとすることはできませんよ」というように、非常に脅(きょう)迫(はく)的(てき)な言葉として聞こえてくるのです。お母さんは、そんなことを意識して言っているわけではありませんけれども、私たちの「私」のところには、こういう問題を孕(はら)んでいることが、なかなかわからないのです。

ですから、こういう「私」というものを前提にして生きるかぎりは、私の思いを満たすこと、自分の思いどおりの人生を生きることが、生きる意味になります。反対に自分の思いどおりにならない問題を抱えますと、生きていても生きていることが喜べないということになってしまいます。

だから、お金が必要なんだ、力が必要なんだ、そして、そのためにはできるものにならなければならないという、強迫観念の中で生きることになるのです。私たち自身も、このような考えから、なかなか自由になれないし、解放されないということがあるのではないでしょうか。

伝道ブックス『いのちみな生きらるべし』(東本願寺出版部)より