higashihonganji-goeido[1]私たちは、自分の物差しで周りと自分とを比較して生きている。そのため、常に状況に振り回されて、自分だけ出遅れたり取り残されてはたまらないという強迫観念にとりつかれて、戦々恐々(せん せん きょう きょう)としている。そのような不安と恐れから、私たちを解放しようというのが、「一切の恐懼(くく)に、ために大(だい)安(あん)を作(な)さん」(『仏説無量寿経(ぶっ せつ む りょう じゅ きょう)』)という法(ほう)蔵(ぞう)菩(ぼ)薩(さつ)の本願である。

目先の楽しみに逃げるのではなく、不安を除き安らぎを与えたい。そのためには、私たち一人ひとりの不安の原因が何であるかを知らせることが大切であるというのが、法蔵の願いである。私たちは、始終願いを起こしている。しかしその願いは、状況の中で起こす願いである。病気の時は病気さえ治ればと願い、受験の時は合格さえすればと願う。その願いが叶えば満足するのかというと、ちゃんと次の願いを起こしている。どこまで行っても終わりがない。

法蔵菩薩の本願とは、一言で言うと、私たちの不安の原因が、自分の置かれている状況や環境、お金や健康などにあるという思い込みを破るはたらきである。私たちの不安の原因は外にあるのではなく、限りなく外に向かって要求し、願いを起こし続け、それに振り回されていることに気づいていない私たち自身の生き方にあるのだと教えるはたらきが、本願である。

葬儀の場面において、たびたび故人の生前の功績をたたえる弔(ちょう)辞(じ)を耳にすることがある。私たちは、この娑(しゃ)婆(ば)を中心に物を見たり考えたりするために、死の意味がわからない。だから、生前の功績をたたえてこんな立派な方だったから、死んでも迷わないでしょうと期待を込めているのではないだろうか。時には葬儀が、故人を利用して世俗(せ ぞく)の権威や欲望を助長する場になってしまっている場合もあるように思う。迷っているのは亡き人ではなく、娑婆の延長上に死後を見る事しかできない私たちのほうなのだと教えるはたらきが法蔵菩薩の本願である。

私たちの思いよりもずっと深い願いがかけられている。そこに私たちが本当に満足し、この人生を歩んでいける立脚地(浄土)がある。親鸞聖人は、そのことを教えるはたらきを本願といわれる。

『ひだご坊』No. 294「念じられ照らされて」(高山教務所発行)より