祭事をきっかけに受け継がれてきた「法灯」②

50年前に東4区の若衆お講へ授与された御消息。他の地区にも若衆お講へ授与されているところがあるそうです。
50年前に東4区の若衆お講へ授与された御消息。他の地区にも若衆お講へ授与されているところがあるそうです。

【先達の「御恩」を知る仏事】

報恩講の勤修時刻が迫ると、地域の方々は会所のお宅に次々と集まり、勤行の10分前には、廊下に溢れるほどにまで大勢の方が着座されていました。

そして、仏間の前方に目を向けると、「若衆」の代表者が法座の最前に着座しています。後にお伺いしたところ、「若衆報恩講」の伝統として、代表者自ら進んで聴聞する姿が先輩から後輩へと受け継がれ、いつしか「若衆」の代表者が最前に着座することが当然のようになっていったそうです。

なお、報恩講に併せて地域の物故者追弔会が勤修されました。私たちに先立たれた方々は、皆等しく地域の先達であると受けとめられ、各々のご家庭でお守りするだけにとどまらず、地域全体で先輩方の御恩徳に虚心に手を合わせることが伝承されてきたとのこと。

この「若衆報恩講」が勤められてきた地域の伝統に呼応するが如くに、ご法話の講師を務められた橋本 真教区駐在教導は、『西方指南抄』に収められている「起請没後二箇条事(法然上人の遺言)」の言葉を示されながら、次のようにお話しされました。

 
ご法話では、能登の伝統に従って恭しく高座が設けられます。仏法を虚心にいただくお同行の姿勢がそこにあらわされています。

≪橋本駐在のご法話(要約)≫

私たちは「報恩講教団」であると名乗ってきました。しかし、「報恩」とはどういった意味でしょうか。

法然上人は、御遺言の中で大きく二つのことを教えてくださいました。一つには「同じ価値観の者でつるむな」ということ。これは、仲間外れを作るような生き方しかできない人の闇をあらわしています。

そして、もう一つは「追善供養をすべきでない」ということです。「追善供養」というのは、仏教の世界観として今生きている中での業によって、次に生まれる生が決まるため、亡くなった方が悪い世界に生まれて困ることが無いように、残されたものが後から追いかけて善根功徳を廻らし向けることを目的とした供養の仏事を勤めることです。しかし、法然上人が押さえられた仏事の意義というのは、衆生の方から善根功徳を廻らし向けるようなものではなく、「報恩の仏事」をなすことだとおっしゃられます。

「報恩の仏事」とは、私に先立ってくださった方が、私たちに教えてくださったことを知ることです。亡くなっていった方々は、自らのいのちを尽くして「諸行無常」を具体的にお示し下さる中で、その無常なるものを絶対化して生きる私たちの危うさを呼びかけるとともに、常にその身をかけて「阿弥陀佛に南無せよ」、「真実に目覚めてほしい」と私たちに呼びかけ続けてくださっているのです。

いのちは、長短や優劣で量られ掌に納められるようなものではありません。「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱え、お念仏の「おこころ」をいただいて生きてこられた方々が、今まさに諸仏となって私一人にはたらいてくださっている。そのような方々の伝統が、私の背景にまでなって生きる力になってくださる。まさに、ダイナミックないのちが、今、私をして生きているのであります。そのことを感得せられる仏事の象徴であるからこそ、宗祖の御命日のお勤めを「報恩(御恩を報(し)らしめられる)講」というのであります。

新たに授与された相続講員畳肩衣と相続講員証が披露されました。
新たに授与された相続講員畳肩衣と相続講員証が披露されました。

【「ホウトウ」を繋いでいく若衆の心意気】

また、ご法話の休憩時間には、「たもあみ(他の地区ではザルを使うこともあるようだが、石崎町では猟師町のせいかたもあみを使うのが伝統)」を持った「若衆」たちが、参拝者からの懇志の勧募に回る姿も見られたほか、そのように寄せられた懇志を「相続講金」として宗派へ納めた御礼として授与された「講員証」と裏桔梗色の「畳肩衣」が披露されました。「若衆」の代表者から御礼のご挨拶を述べられると、参拝された方々は温かい拍手が送られていました。

ご法話に続いて振る舞われたお斎では、若衆の方が営まれている豆腐店の「茶碗豆腐」が振る舞われました。能登半島の珠洲では大豆が育ち、奥能登の塩田では天然のにがりが手に入ることもあってか、かつてから能登では豆腐作りが盛んに行われ、多くの職人が関東や関西へ移住したとも言われています。

この日に振る舞われた「茶碗豆腐」は、絹ごし豆腐を茶碗型に形成しその真ん中に和がらしが入ったもので、夏の時期だけにしか作られない貴重なものです。濃厚な旨味がありながらも、和がらしのツンとした辛味が口の中をさっぱりと整えて清涼感が溢れる味わいに、思わずご参拝になられた方々の顔も綻び、お斎の場も一段と和んだ雰囲気になっていました。

 

お斎で振る舞われた茶碗豆腐。右に写る豆腐店の若ご主人自慢の一品。
お斎で振る舞われた茶碗豆腐。右に写る豆腐店の若ご主人自慢の一品。

豆腐職人が関東や関西へと移住していった時分と比較して、若者の移住が圧倒的に増加して町の中に空き家が増えるなど、「奉燈」の担ぎ手を担う若者の減少は深刻だと言われています。

それでも、金沢に移住した若者の一部は、「奉燈祭」や「若衆報恩講」のためならば、予定を調整してでも石崎町へ戻ろうと頑張っておられます。若衆の中には、「金沢に出たとしても、先輩から戻ってこいと言われたら、戻らないわけにはいきませんよ」と笑顔で話される方もおられ、たとえ人数が少なくなったとしても、先輩方から受け継いできた伝統を守っていこうという心意気があらわれていました。

そういった先輩方との繋がりは、若衆を卒業した壮年団(30歳以上)の方々の中にもしっかりと根付いており、代表者からの申し出を受けて、壮年団の活動として養泉寺での勤行練習を始めることになりました。理由を藤原住職が問うてみると、自分の祖父母や両親がお内仏の前でお参りする姿を見て育ったが、いよいよその先達に先立たれ、自分も同じようにお参りをせねばと思い、ご住職に教えていただきたいと思い立たれたのだそうです。

「奉燈(ホウトウ)」を通じて先輩を慕う若者たちの思いや、その祭事を見守り寄り添ってきたお寺や地域のご門徒の皆さんがご縁となって、「法灯(ホウトウ)」を受け継ぎ次の世代へと紡いでいくという、本来あるべき人の交わりを回復しているように伺えました。