今日のことば キリスト教の信仰では「神は愛」という。仏教では「仏心というは大慈悲これなり」(真宗聖典一〇六頁)と、「仏の慈悲」といい、仏心の涙・悲しみが感じられる。仏の仏たる所以は、この「悲」の一字にあるのではないだろうか。その悲とは、われら人間の生活現象を見いだされた時の、黙視できない驚きの情であって、それは「悲しみの智慧」といってもいいだろう。「如来大悲の恩徳は」(恩徳讃)というが、「如来大慈」とはいわない。かつては、阿弥陀如来を「大悲の親さま」と呼び習う地域もあったくらいである。この「悲しみの智慧」の深さにこそ、仏心の本願が表現されていると思う。

「悲愛」という語がある。親鸞聖人の念仏の深さに感動された井上洋治神父の造語である。人知の愚かさを悲しむといっても、ただの冷たい批判の眼ではなく、むしろ、その悲しむべき事実を、どこまでも背負っていこうとする、悲願の眼と知らされる語である。
『仏説無量寿経』には、「群生を荷負してこれを重担とす」(真宗聖典六頁)とある。たとえ荷負している肩が砕けようとも、決して見捨てはせぬという、仏の覚悟の程が表現されている。

また、蓮如上人は『御文』に再三、「摂取不捨(おさめとりて捨てたまわず)」の一句を引文し、三帖目四通(真宗聖典八〇〇頁)では、「摂取の光益(まよいのすがたを照らし出す智慧光のはたらき)」「不捨の誓益(どのようになろうとも、見捨てはせぬという誓い)」を示され、凡夫と運命を共にすると誓われた本願大悲の深さに注目せよと、すすめられている。

まさしく、智慧と慈悲のはたらきそのものが、われらがための仏さまであった。病める人知の病根を断ち、生きるすこやかさを回復させようと志されてのはたらきなのだから、安直な同情や親切心ではない。その智慧・慈悲の情熱に思いを馳せれば、仏とは、どこか遠くにおられる尊い方と考えていたことが、全くの見当違いだったと知らされる。言葉の世界に生を受けたわれらのために、仏の形を捨て、「南無阿弥陀仏」という言葉になったのだ。念仏もうす私の中に入り、私を目覚ますはたらきとなってくださる。言葉の世界にありながら、言葉で惑い、苦悩しているわれらの救済を悲願されたからこその教化活動方針だといったら過言だろうか。

言葉となった仏のはたらきを「名号」という。名号六字も南無阿弥陀仏、称名念仏も南無阿弥陀仏。しかし、名号と念仏の違いをおさえておかなければ、念仏もうしても絵空事になりかねない。「名号」は、仏から私にさし向けての問いかけ、語りかけである。そのはたらきかけに呼びさまされて、「本当に、おっしゃるとおりの私でした」と気づかされた時の、お返事もうす南無阿弥陀仏を「念仏」という。ここには応答の関係がある。

それも、仏法聴聞してこそではないか。「聴」は、真意いずこにありやと聴く、姿勢の真剣さ。「聞」は、私の魂に響き、聞こえたという文字。ただ、聴いたからといってすぐに聞こえてくるとは限らない。生活の中で、ハッと思い当たり、新たに聞こえてくることがある。

「今日のことば 2015年(表紙)」『智慧・慈悲のはたらき そのものが「仏」なのです』
出典: 「はたらく仏さま」坂東性純