今日のことば  お参りに行くたび、ニコニコと迎えてくださっていたご門徒さんが亡くなられて、そのお通夜のお勤めをしていた時のことです。『正信偈』を勤めながらふと遺影を見上げたら、生前の穏やかな笑顔からこのような声が聞こえてきたような気がしました。「住職さん、次はあなたの番かもしれませんよ。ご用意はできておられますか・・・」。

それ以来、お通夜で法話をする時にはいつもこの言葉を参列の方々にお伝えしています。「次は自分の番かもしれない。私は「その時」を迎えることができるのか。亡くなった方がそれを自分に呼びかけてくださっている。お通夜に参るのは、この呼びかけを聞くためです」。
お通夜の時、よく「疫癘」の御文が拝読されます。この御文は「人はいつか必ず死すべき定めを負って生まれてくるのですよ」といっています。そして還骨の勤行の時は「白骨」の御文です。この御文は、「私たちの最期の時は、いつどんな形でやってくるかもわからないのですよ」といっているのです。だから怠ることなく、「後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」(真宗聖典八四二頁)と締めくくられています。

「後生の一大事」というのは、その一事に決着がつかなければ死んでも死にきれない、大きな悔いしか残らない、それほどの大事ということなのでしょう。そういうものが私たちの生涯にはやはりあるのだということを、蓮如上人は御文の中で強く訴えておられます。「目前の快楽に耽る人ばかりが多いように見受けられるけれども、人生にはもっと真剣になって求めるべき大事があるのですよ」と。日頃は意識することもないようなことかもしれませんけれども、自身の死と対面させられた時には、おのずと浮かび上がる一大事があるのでしょう。

この世にいのちを授かった以上、その中に深い意味を見いだしていきたい。それが見つけられなかったら、生きたことの全体がただただ空しい。だから、死んでも死にきれない。この娑婆にこの身を授かったことの意味を問う、生涯をかけて出遇うべきものを問う、それが「後生の一大事」の中味といえるでしょう。

蓮如上人はその「後生の一大事」は浄土往生によってのみ応えられると教えてくださっています。「往生が定まるところにこそ、私たちが死んでいける道があるのですよ。それ以外の道は結局授かったいのちを空しく終わらせてしまうだけですよ」と。

真宗に出遇えてありがたかったなと思うのは、名聞・利養・勝他の意識に縛られて、大事なことの見えない自分だったと気づかされた、ということでしょうか。あのまま進んでいたら、とんでもないことでした。そのような心を捨てきることもできてはいないのですが、お念仏もうすたびに、「いま自分はどこへ往こうとしているのか」という方向の確かめを、意識させられるようになりました。

滋野井光

「今日のことば 2015年(3月)」 『死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です』
出典:「親鸞に出遇った人びと〈5〉」東 昇