今日のことば 2007表紙
「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります

仏心というは 大慈悲 これなり  (出典:『観経』)

「かわいそうなものを見たら何とかしてあげたい」と思うのは、人間であれば誰もが持っている心です。そう思わなくなったら人間ではないわけです。仏教を聞いても聞かなくても誰もが持っている人情です。

人情と慈悲とは同じものなのか。これは私たちの素朴な疑問であると同時に、大乗仏教の課題の一つでもあったのです。「涅槃経(ねはんぎょう)」では、この慈悲ということを三縁として説かれています。この場合、縁というのは対象です。衆生を対象としてはたらく慈悲(衆生縁の慈悲)、法を対象としてはたらく慈悲(法縁の慈悲)、そして対象のない慈悲(無縁の慈悲)の三つです。曇鸞大師(どんらんだいし)は『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の中で、これを小悲、中悲、大悲と位置付けをしています。

衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。

さて、対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」に「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す」と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。

鈴木大拙師は「慈悲の究極は存在にあり」と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。

『今日のことば 2007年(表紙)』 「仏心というは 大慈悲 これなり」
文:熊谷宗惠(金沢教区仰西寺前住職・真宗大谷派元宗務総長)

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