さまざまないのちに支えられ、共に現に生きているという、そのこと自体が尊いのだということに思いがいたると、生きることへの元気が出てきます。
さまざまないのちに支えられ、共に現に生きているという、そのこと自体が尊いのだということに思いがいたると、生きることへの元気が出てきます。

「私は自分で生まれたくて生まれてきたのではない」と言う人がいます。その通りです。私は私のはからいで生まれてきたのではありません。しかし私が今お預かりしているこの「いのち」は、生まれたくて生まれてきたに違いありません。生まれたくて生まれてきたいのちは、だからまったく迷うことなく生きようとしています。今この瞬間も、心臓も肺も他の内臓も神経も筋肉も生きるという明確な目的のもとに働いています。さらに地水火風すべてが私の生を支えています。そこに大きな願いのはたらきを感じずにはいられません。

そのことを思いますと、不思議な安心感が生まれてきます。そのはたらきにのって、思い通りにならない娑婆(しゃば)を安心して生き、そして生きる(えん)()きると、いのちのふるさとへ安心して帰らせていただく。その帰る先は、私が仏に()らせていただく浄土(じょうど)です。これを「往生(おうじょう)」といいます。その安心に立ったとき、与えられた現実にひるまず、いのちを燃焼させ、自分のできる限りを尽くす意欲が出てくるのでしょう。「私のいのち」と言いながら、そのいのちを真剣に考えることさえしないこの私が、いずれ仏に成るべきいのちを生きていると、仏さまから(おが)まれているのです。そして仏さまから願われて生きていると気づくと、不完全な弱い(おろ)かな私が見えてきて、だからこそ願われていると教わります。さまざまないのちに支えられ、共に現に生きているという、そのこと自体が(とうと)いのだということに思いがいたると、生きることへの元気が出てきます。

帰る先がはっきりすると、現実のさまざまな問題に対して、安心して尽くしていけます。新しいことや、ためらっていたことに着手したり、やり直したりもできるでしよう。そうなったとき、今(いとな)んでいる毎日の生活の中の一つひとつが、私が私になっていく大事なこととして、意味のある歩みに感じられるようになるのでしょう。その歩みを「往生」というのでしょう。

真城義麿(京都、大谷中・高等学校長)
『真宗の生活 2006年(2月)』「往生」

※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。

shupan東本願寺出版の書籍はこちらから
読みま専科TOMOブック / 東本願寺電子BOOKストア