真実の教えに出遇わない限り、その「自分の都合」が持つ罪の深さに気づくことがありません。
真実の教えに出遇わない限り、その「自分の都合」が持つ罪の深さに気づくことがありません。

しばらく前のことですが、夫が大手術のあと、一命を取り止めることができた方から、「このたびほど、仏さまがありがたいと思ったことがありません」という言葉を聞きました。私はその時、ふと、もし事態がまったく逆の方向に進んでいたらこの方は私に何とおっしゃっただろうか、もしかしたら仏さまへの(うら)みの言葉を聞いたのではないか、と思いました。

私たちは、「自分の都合(つごう)」を根っこに()えて生きています。しかも私たちは、それを当然のこととしています。真実の教えに出遇(であ)わない限り、その「自分の都合」が持つ罪の深さに気づくことがありません。その罪に気づかれない間は、たとえそれが命にかかわることであったとしても、仏を拝むというかたちをとりながらも仏をも自分の祈願(きがん)成就(じょうじゅ)のために利用しようという心なのです。その心は、自分の願い事がかなわなければ、仏に恨み事をいう心ですし、逆にかなえばかなったで、喜びもつかの間、またぞろ、その時どきの状況に一喜(いっき)一憂(いちゆう)し、流される日々が続くばかりです。その心には、自分のこの今を、本当にありがたくちょうだいする時が与えられることは決してありません。

私たちは、自分のさまざまな思いでお念仏を(とな)えます。阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)本願(ほんがん)名告(なの)りであるお念仏は、その私たちにどこまでも寄り添いながら、私たちの持つ罪に気づきを与え、真に()すべき道を指し示し、この今をありがたくちょうだいして生きる私の誕生を(うなが)し続けてくださっているのです。

『真宗の生活 2007年(5月)』「自分の都合」が持つ罪の深さ
『同朋新聞』(東本願寺出版部)から・髙間重光(大阪教区了信寺)
※役職等は『真宗の生活』掲載時のまま記載しています。

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