高松市郊外。高松中央ICを出て車を十分ほど走らせると住宅街の中に風格ある建物が見えてきた。アットホームな雰囲気漂う東讃組正信寺。ご住職である神内正徹さん、副住職である正信さんにお話を伺った。

正信寺は元々地域の地蔵堂だった地に、大正時代、地域の人々の強い要望により説教所が建てられ、その後、1947(昭和22)年に寺号が公称され今日に至っている。その正信寺は、数年前大きな出来事に直面する。市の区画整理事業により、本堂・庫裏の移転、新築を迫られる。限られた条件のもとで妙案は浮かばない。そんな悶々とした日々が続く中で一つの出会いが訪れる。

「アズマダチ」家屋
「アズマダチ」家屋

同朋会館教導の高岡教区大福寺住職・太田浩史さんと、同じく会館教導として同朋会館に赴いていた正信さんが同室になった。正信さんが寺の事情について語ると、太田住職は富山県南砺地方にある「アズマダチ」家屋(富山県・破波の伝統的家屋)の移築を提案された。

元々「お講」を開く場を前提に建てられた家屋であること、近年は無住化し解体を余儀なくされている家屋もあること。太田住職の話に耳を傾ける中、正信さんには「お講」の場を前提に建てられ守られてきた「アズマダチ」家屋と、地域の人に願われる形で説教所として始まった自坊とが重なって見えたそうだ。

自坊に戻った正信さんは、太田住職からの提案を家族に伝え、現地に足を運ばれた。かつて材木を扱う仕事をされていた住職の正徹さんも、富山の大雪に長年耐えてきた立派な家屋の柱を目の当たりにし、「これならいける」と確信されたそうだ。

左から副住職さん、若坊守さん、坊守さん、住職さん
左から副住職さん、若坊守さん、坊守さん、住職さん

しかし移築事業は容易には進まなかった。移築すら前例が少ない、ましてそれを本堂として再建するなど例を見ない事業。当然ながら不安視する声も多かった。だがこの惑いの声こそ、この事業を「お寺は何のためにあるのか?」という原点に立ち帰らせ、「念仏道場の再建」へと導かれたと正信さん。やがて惑いの声はあるお同行の言葉に集約されていく。

「お寺さんが親鸞さんのように生きたいと言い、この建物には親鸞さんの「お心」が刻まれていると言っているのに、わし等これ以上何を反対できるのか」

ついに移築事業が始まった。初めての試みで誰もが不安を抱えていたが、瞬く間にその声は薄れていった。「トントン」という木槌の音に誘われるように、多くの方が連日見学に訪れた。南砺の地からやってきた棟梁や大工さんたちとのふれあいも新たな絆を生んだ。そして2007(平成19)年夏完成。誰もが手を取り合って喜んだ。

正信寺の前には一つの石碑がある。完成が間近に迫る頃、一人のお同行が寺の象徴となる言葉を刻んでほしいと寄付されたものだ。このお寺は「他者の抱えている苦しみや悲しみの背景に、声無き声としての「念仏」を聞き取っていくことが試されている場」。迷わず「正信寺念仏道場」と刻んだ。

南砺の地で「お講」の場として受け継がれてきた家屋は、讃岐の地で「念仏道場」に姿を変え、今日も灯に照らされ続けている。

(四国教区通信員 田中将登)
『真宗 2010年(1月)』
「今月のお寺」四国教区東讃組正信寺
※役職等は『真宗』誌掲載時のまま記載しています。

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