一人ひとりがそのままで大事にされ、一緒に生きてゆける世界を本当は願っているんだ
一人ひとりがそのままで大事にされ、一緒に生きてゆける世界を本当は願っているんだ

所詮(しょせん)、人はエゴの(かたまり)、みんなバラバラでひとりぼっち、世の中なんてそんなものさ、泣きたいような気持ちでさみしいなあとつぶやく。こんな経験は誰にでもあると思う。

このさみしさはどこからくるのだろう。誰でも頭では人が人を排除したり、差別したり、見捨てたりすることを良しとは思っていない。一人ひとりが大事にされなくてはと思っている。

でも、そんな思いは現実の生活において、単なる理想だと簡単に打ちのめされる。

しかしだからといって、力のある者が弱い者を切り捨てていいんだとは開き直れないものが、心の中でさみしいよと声をあげている。それは、たしかなものに会いたいのに、探しあぐねて途方にくれている迷子のようだ。

人はずっと昔からこのさみしさを抱えてきたに違いない。自分の能力や心がけでは見出せない世界ではあるけれど、一人ひとりがそのままで大事にされ、一緒に生きてゆける世界を本当は願っているんだということを、さみしいというつぶやきをもって表してきたのではないだろうか。

先日参加した研修会で、「安養国(あんにょうこく)へ往生せよ」(大無量寿経)というのは人類の遺言(ゆいごん)だとおっしゃった先生の言葉がとても心に残っている。あなたも安養国へ往生しなさいよ。そこはお念仏申すことでつながれる広い世界ですよ。決してひとりぼっちじゃないですよ。あらゆる人と平等に、対等に出会える世界ですよ。絵に描いた餅のような理想の世界ではなく、実はあなたを支えているいのちの世界ですよ。その世界を生きてください。こんなふうに迷子の私に呼びかけているに違いない。

お盆の季節、お墓の前で手を合わせるとき、亡くなった方の遺言に耳を傾けようではありませんか。

本多元子(山形教区本慶寺)
『真宗の生活 2006年(8月)』
※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。

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