〈どこから来たのか、どこへ行くのか〉とは、〈私とは何者なのか〉という問い
〈どこから来たのか、どこへ行くのか〉とは、〈私とは何者なのか〉という問い

今年もお盆がやってまいります。多くの方々が故郷に帰り、再会した親兄弟姉妹とともに、先立ったご先祖を(しの)んでお墓にお参りしたり、交歓(こうかん)の時を持たれることでしょう。それは、私たちの心の奥に(ひそ)む〈素朴な宗教感情〉の発露(はつろ)でしょうか。

しかし、故郷でもたらされるのは、快いことばかりではありません。肉親なるがゆえの感情のもつれなどもあったりして〈宗教感情〉が(しぼ)んでいき、虚脱感(きょだつかん)や淋しさだけが残るということもまた経験することです。それでもお盆の季節になると、私たちの心は帰巣(きそう)本能がはたらくように故郷へ向かいます。それは〈私はどこからきたのか〉を尋ねようとしているからだと思われます。

経典には、混迷する私たちの真相を「生じて従来するところ、死して趣向(しゅこう)するところを知らず」(『大無量(だいむりょう)寿経(じゅきょう)』・『真宗聖典』74頁)と教示(きょうじ)しています。〈どこから来たのか、どこへ行くのか〉とは、〈私とは何者なのか〉という問いでしょう。

バブル経済のはじけた頃から、〈自分探しの旅〉が始まりましたね。何が本当の私なのか、それがわからなければ、私の人生は(むな)しいではないかという心の奥深くからの問いに(うなが)されて旅立った私たち…。しかし、〈本当の私〉は見つかったのでしょうか。他人と比べて見る目しか持ち合わせない私が見つけたのは〈居心地の悪い私〉でしかありません。

NHKのトーク番組に出演した俳優の柄本(えもと)(あきら)さんが、監督によって「眠っている自分が呼び起こされる」と語っておりました。

これを聞いて思うことがあります。親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は〈よきひと〉法然(ほうねん)上人(しょうにん)の導きによって本願(ほんがん)念仏(ねんぶつ)(おみ)(のり)に出遇い、〈本当の私〉を確立されたのでした。教法を生きる〈よきひと〉との出遇いは、内奥の〈宗教心〉を目覚めさせ、やがてこの心が教法との出遇いを実現し、〈本当の私〉の確立に向かうのでしょう。

お盆の一日、お寺を訪ねてご住職と〈自分探し〉をしてみてはいかがでしょうか。きっと、素敵なお盆体験となることでしょう。

丸田善明(仙台教区宗通寺)
『真宗の生活 2007年(8月)』
※『真宗の生活2007年版』掲載時のまま記載しています。

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