仏が仏になる。人間(凡夫)が人間(凡夫)になる
仏が仏になる。人間(凡夫)が人間(凡夫)になる

これが人間か。これが人間がつくる世界か。目を疑うような事件が次々と起こります。
なにか大事なものを人間は見失ってしまったのではないか。人間を成り立たしめ、世界を成り立たしめる「法」とか「道」とか「真実」と呼んできたことを、見失ってしまったのではないのか、と思われます。

仏教は、はじめに仏ありとは言いません。はじめに法ありと宣言する教えです。人と(いえど)も仏と雖も、法をつくり法を建てることは許されないのです。法は、人を照らし、仏を照らし出す光であり鏡であります。ですから法とは、人も仏も共に帰依(きえ)すべき根拠であり真実であります。

ただ、仏はその法を(さと)り、人はその法に目覚めることなく迷い続けている存在であります。仏も人もその本体は変わりありません。だから、法目覚めた仏は、迷い(もだ)え続ける(ひと)に、「わたしの如く真実の法を求め念じ続けよ」と呼びかけ続けているのです。

そこで大事なことは、法を念じ法を聞き続ければ、いままでの自分が破られて、必ず法によって照らし出された自分自身に遇うことができるということです。
自分が照らし出されてこない法は、それは人間が自分で握ってしまっている法であって、それは法自体、(はたら)きのない死んだ雑毒(ぞうどく)・不実の法なのでありましょう。

どんな宗教でも、教法という法があります。しかしその法を自分で握ってしまう執心(しゅうしん)の罪が、宗教者には常につきまとうものなのです。その罪を法執(ほっしゅう)仏智疑惑(ぶっちぎわく)の罪だと、親鸞聖人は教示されました。その真理を握り、「われこそ善であり正義である」という法執の罪ほど見えにくくて怖ろしいものはないと教えられるのです。

今日、中近東の泥沼の如き争いは、宗教によって人間が(おちい)る法執の罪業のあらわれではないでしょうか。いよいよ念仏の法に立ち帰る(とき)であります。

「仏は人を鏡として仏となる。人は仏を鏡として人となる。」(曽我量深)

法を覚った仏陀(ブッダ)は、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫が見えてきて、はじめて法蔵の本願に出遇って如来となった。仏が仏となったのです。

法に迷う人間は、法を覚った仏が見えてきて、如来の本願に出遇って凡夫となった。凡夫が凡夫になったのです。

成仏道とはそういうことかといただいています。考えてみれば、人間(凡夫)が人間(凡夫)になる。つまり、自分が自分になるという問題は、私の少年の頃からの漠然とした不安を感ずる課題でした。それが青年時代の悩みとなり、また仏法を聞く機縁となったのでありました。

『自分が自分になる』(東本願寺出版部)から・二階堂行邦(東京教区專福寺)

『真宗の生活 2006年(12月)』
※役職等は『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。

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