どんな人も尽くしていくことができる道、それが浄土真宗である
どんな人も尽くしていくことができる道、それが浄土真宗である
選択本願は 浄土真宗なり
『末燈鈔』『真宗聖典』601頁

親鸞聖人のお手紙を、『末燈鈔』というタイトルで編纂されたものがあります。このお言葉は、その第一通目にある聖人のお言葉です。

『末燈紗』というタイトルには、何が真実であるのかわからない末法の世を、聖人のお手紙を灯として生きていかれた方々のお心が思われます。

老や病や死の苦しみ、そして愛別離苦あいべつりくなど、人として生きる苦しみや悲しみをとおして、そのような身に出会われます、人生の立脚地となる真実が「本願ほんがん」という言葉で伝えられ教えられています。

それをいま、聖人は「選択本願せんじゃくほんがん」と述べられ、さらに、それが「浄土真宗」であるとお示しくださっているのであります。聖人は、どのようなお心でこのようにおっしゃっているのでしょうか。

本願を、「選択本願」といただかれましたのは、親驚聖人の師である法然ほうねん上人です。そして、そのことをもって、一宗を打ち立ててくださったのであります。

大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、「選択」とは、本願が五劫という長い時間をかけて、他のかたちに選んで、「南無阿弥陀仏」という姿となって、衆生しゅじょうの現実の上に自らを表現してくださった事実を意味しています。

法然上人は、衆生の現実をにない、衆生を救おうとしてはたらいてくださっている仏の大悲だいひのご苦労を、「選択」という2文字にいただかれて「選択本願」とおっしゃっているのであります。

思いますと、私たちは、どんなに素晴らしい教えや真実があったとしましても、それを生活の中で保ち続けるのは容易なことではありません。さまざまな出来事や事件の中で戸惑いながら、また自らの思いに振り回されたりしばられたりして生きているのが私たちです。

そのようなあり方をしている私たちのことを「凡夫ぼんぶ」と教えられていますが、その私たちに、教えや真実を保つ道がないとしますなら、それがたとえ私たちを救う真実であるといたしましても、結局は、絵に描いたもちに終わってしまいます。

そこに、長い時間をかけて、本願が「南無阿弥陀仏」にまでなってくださったということがあるのでありましょう。
歎異抄たんにしょう』には、

誓願せいがんの不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、(『真宗聖典』630頁)

とあります。

本願が「南無阿弥陀仏」と名号なのってくださっていればこそ、私たちは、念仏申すことをとおして本願に縁が開かれ、また本願を尋ねながら一歩一歩人としての生を生きていくことができるのでしょう。

廣瀬 惺(1946年生まれ。岐阜県在住。同朋大学教授。大垣教区妙輪寺住職)

『今日のことば 2010年 表紙』
※『今日のことば2010年版』掲載時のまま記載しています。

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