仏の教えを論じる人は多いが その(かなめ)を教える人は少ない (教行信証)
出典 浄土を論ずる者常に多けれども、その要を得て直ちに指(おし)うる者あるいはすくなし
『真宗聖典』239頁

 

今日のことばこのことばは、親鸞聖人が、人生をかけて書き残してくださった『教行信証』信の巻に、「楽邦文類」より引用されました。私は、人生に引き当てて考えてみたいと思います。
私は、学校で、いろいろな先生より多くのことを教えていただいたのですが、「なぜ、何のために学ぶのか?」という問いに対して、教養のため、進学や就職の手段としてしか言えなかった。

 

大学2回生のとき、哲学の講義で、「汝自信を知れ」の一言に出遇い、「学ぶことの意味」に気づかされたことがあります。

 

また、29歳のとき、仕事のことで迷い、「どう生きるべきか?」という問いをもって1冊の書、金子大榮師の『人間について』(雄渾社)に出遇いました。

 

そのなかに、「人間は死を問いとして、それに応える足る生き方を学ぶことができる」とあり、その生き方をされた人が釈尊であり、親鸞聖人であると書かれていました。

 

そんな折、京都の寺の次男にであった私に、伯父の寺を継ぐ話があって、家族そろて入寺することになったのです。畏れ多いことですが、私は、親鸞聖人の生き方を通して、この道を歩もうと決心することができたと思います。

 

 

特にあげれば、『歎異抄』の第2章に、晩年京都に帰っておられた聖人のもとへ、関東での「念仏諍論」に対する判断を求めて来られた同行衆におっしゃったこと。
はるばる命懸けでたずねて来られた御こころざし(一途に教えを求める尊いこころ)は、ひとえに極楽浄土の道を問い聞くためでしょう。

 

 

「お念仏」を議論して人に言い負かすために学ぶのであれば、優れた学者の下で勉強されたらよい。しかし親鸞聖人におきては「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と善知識・法然上人に教えに信順するだけなのです。

 

このようにおっしゃったのは、29歳までの20年間、比叡山で聖道自力の学問・修行に励まされながら、常に自身を問うておられたからだと思います。

 

「信の巻」に、胸の内を深く悲歎しておられることが吐露されています。

 

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の公海に沈没し名利の太山に迷惑して、定聚の数(必ず仏に成る仲間)に入ることを喜ばず、真証の証(浄土でのさとり)に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

(『真宗聖典』251頁・括弧内筆者)

 

自身を問えば問うほど、どうにもたすかりようのないわが身だがらこそ、たすけずにはおかぬ「阿弥陀仏の本願他力(ほんがんたりき)」を真実の教えとして帰順してゆかれたのだと思います。
要は、どれほど教えが説かれ、論じてみても、この私自身がたすかるかどうかです。

 

宗祖の開かれた「真宗」は真実を宗とする教えであります。

真……イツワリヘツラハヌ

実……カナラズモノノミトナル

と左訓しておられるように、このわが身に、まちがいなく、往生浄土の道が実現することを、教えの「要」として説いてくださっているのです。

 

 

加田岡 降昭(かたおか・りゅうしょう)

(1944年生まれ。滋賀県在住。長浜教区圓長寺住職。真宗本廟教化教導)

 

『今日のことば2008年1月』

※『今日のことば2008年版』のまま掲載しています。

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