今日のことば
自分の身に不条理が起これば、闇が顔を出してモノを言ってくる。「なぜこの私に…」と。
善人なおもて
往生をとぐ
いわんや悪人をや
歎異抄
出典:「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」『真宗聖典』627頁

 

病気に罹患し、治癒の見込みのない状態になったり、受け入れがたい不条理に出会った人びとのカウンセリングをするとき、多くの方々から聞く言葉がある。「何も無いことをしていないのに、どうしてこのようなことが自分に起こるのか」「私は何か悪いことをしていたのでしょうか?」。
これらの言葉を耳にすると、私の心にはザワザワと奇妙な波が立つ。みんな本当に悪いことをしてこなかったと思っているのだろうか…。

 

社会では「悪いことをする」「悪いことを言う」というように、悪は主に行動や発言を問題にする。そして悪に対する罰も設けられている。しかし仏教では思っただけでも悪いと考える。その上、悪の自覚がない場合は、最も悪であると考えられている。次々と欲が出てきて貪(むさぼ)り、怒りに心が落ち着かず苛立ち、他者と比較してはうらやみ嘆く。

 

これらの根本的煩悩が完成され、その煩悩をタレ流して生きている「私」に気づかない。煩悩によって他者を傷つけても自覚することなく、正義と善に立って常に自分の外に悪を見る。こうして前途の言葉が出てくるのだろう。

 

カウンセリングは、相談者の主に情動(じょうどう)を共感的に聞いてゆくのが原則であるから、私の心の底で波立っている気持ちはそのままに、「何も悪いことをした覚えがない」と思っているのだろうなぁと、言葉通りに受け取って聞き続ける。「私」ができる自覚は、ここでとどまる。
倫理道徳(りんりどうとく)の視点から「私」を見ると、自分は悪人ではないと言える人は、きっと大勢いるのだろう。自分の生き方が悪でないと言える人は、きっと大勢いるんだろう。

 

私たちは、親から、また学校で、このように教わっている。悪いことが身に起こるのは当然であると…。そして悪の原因をさまざまに分析して、納得できそうな答えを捜し出す。

 

私たちは、社会の常識やルール、倫理道徳などフィルターをかけられて種々に分別され、生きていくことさえ条件付きで許されたり罰を与えられる世界を生きているのであるから…。

 

仏の視点で「私」を見ると、誰しも無明という闇を抱え、煩悩という業を生きている身である。悪を行わずに清く生きようと努力し、心を整えて善を行い、人を傷付けないように行きたいと思う。

 

しかし、ひとたび自分の身に不条理が起これば、闇が顔を出してモノを言ってくる。「なぜこの私に…。」と。そして次々に納得できる答えを求め、社会通念や道徳などからの許しを乞うのだが、答えのないこの不条理な問いは「事実を認めなさい」と迫ってくるのである。問いは、時に人をカウンセリングという相談に向かわせる。
このときから、人は鏡になってくれる教えや人がすでに存在していたことに気づき、初めて出会って、自分の身が証明している事実に目覚め、それでもなお、抵抗しながらも物の赦しを切望する凡夫になってゆく。私たちが凡夫として生まれ直し、救われるには、善か悪かを問わず、分別(ふんべつ)することなく働いてくれる物の力が必要不可欠なのだろうと思う。

三橋 尚伸 (みつはし・しょうしん。1949年生まれ。神奈川県在住。真宗大谷派僧侶。産業カウンセラー・日本カウンセリング学会会員。)

『今日のことば2008年10月』

※『今日のことぼ2008年版』のまま掲載しています。

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