― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈1〉 教如上人
(『すばる』722号、2016年7月号)

【すばる用】浄泉寺001教如寿像01

「教如上人寿像」(浄泉寺所蔵)

 
1、教如上人と東本願寺創立

教如(きょうにょ)上人(1558~1614、東本願寺在職1602~14)は永禄元年(1558)9月16日、本願寺11世顕如(けんにょ)上人(1543~92、在職1554~92)の長男として生まれました。教如上人の前半生は、織田信長と戦った石山合戦のただ中にありました。元亀元年(1570)、石山合戦が始まり、各地で一向一揆が起こりました。天正8年(1580)4月、父の顕如上人は大坂本願寺を退去しますが、教如上人は籠城する道を選びました。しかし同年8月には教如上人も退去を余儀なくされ、その後2年間は諸国を流浪していたと言われています。その際、各地の僧侶・門徒が教如上人を支えました。それらの地域で僧俗一体となった信仰共同体が生まれ、のちの東本願寺教団の基盤となっていきました。

 

天正10年(1582)6月に教如上人は本願寺教団へ帰参しますが、その後も父顕如上人や母如春尼方との確執は再燃し続け、東本願寺の別立へとつながっていきます。

 

慶長7年(1602)2月、教如上人は徳川家康から烏丸六条の地を拝領しました。豊臣秀吉の時代から、本願寺はすでに2つに分かれているという認識が当時あり、それを前提として家康は、教如上人へ土地を寄進したと言われています。ただしこの段階で、東本願寺の分立は公式に認められたものではありませんでした。13世宣如上人(1604~58、在職1614~53)の時代である元和5年(1619)、将軍徳川秀忠から寺領安堵の朱印状を与えられ、ようやく一派独立の本山として公認されることとなりました。

 

 
2、寿像・影像のもとにつどう僧俗

一般寺院の僧侶や門徒にとって、教如上人の存在を身近に感じられるものとして、肖像画である寿像や影像があります。

 

浄泉寺(京都教区山城第2組、京都市中京区)には、慶長11年(1606)12月18日に教如上人から免許された「教如上人寿像」【写真】が現存します。寿像とは、歴代門跡の生存中に授与された門跡の肖像画です。慶長7年に本山が起立された際、教如上人へ随従して「御堂出仕」を任じられた同寺開基の宗通は、その職務が勤勉であったとして、黒衣の寿像を授与されたと伝えられています。

 

また長覺寺(京都教区山城第1組、京都市下京区)には、万治3年(1660)6月5日に14世琢如上人(1625~71、在職1653~64)から、同寺2世明伝に宛てて免許された、黒衣の「教如上人影像」が現存します。一般寺院では、歴代門跡の影像を安置していますが、その初期段階のものとして、教如上人の寿像や影像を所蔵している場合が散見されます。これにより各地にある一般寺院の僧侶や門徒は、本願寺や門跡とのつながりを実感しながら聞法できたのではないでしょうか。

 

また西美濃地域にある揖斐川流域の寺々からなる北山十日講(岐阜県)や美濃尾張五日講(岐阜県・愛知県)といった講組織においても、「教如上人寿像」などの法宝物を、回り持ちしながら伝えておられます。これらの地域では、石山合戦後、秘かに訪れた教如上人をかくまったと伝承されています。念仏の教えを伝えて下さった教如上人の遺徳を偲ぶ講行事が、寺院あるいは門徒宅を宿として、僧俗がともになって現在も執り行われています。

(執筆・松金 直美)

 
■参考文献

同朋大学仏教文化研究所編『教如と東西本願寺』(法藏館、2013年)

 

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)