高山教区『正信偈同朋唱和集—現代語訳付—』発刊にあたって

高山教区・高山別院では、来る2019年5月の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要に向けて、御遠忌法要教化の主な施策として、同朋唱和による正信偈のお勤めを推進するため、様々な取り組みを進めています。
今回は、その一つである、御遠忌記念出版『正信偈同朋唱和集―現代語訳付』(以下、『正信偈同朋唱和集』)の制作について、内記淨さん(高山教区徃還寺住職・宗議会議員)と三木朋哉さん(同教区淨福寺住職)、三枝正尚さん(別院職員)にお話をお聞きしました。


―同朋唱和集の発刊の願いを教えてください!

【内記さん】
以前から、高山教区は正信偈のお勤めができる方の多い地域だなとは思っていました。しかし、門徒さんに時々聞かれるんです。「正信偈ってどういうものですか?」「いったい何が書かれているんですか?」と。赤本(『真宗大谷派勤行集』)までしか触れていない方々にとっては、何か大切なことが書いてあるという認識はあっても、それが何であるかよく分らないということなんでしょう。

内記淨さん
内記淨さん

蓮如上人の御遠忌の頃、本山で同朋奉讃(お早引きの形式)による三帖和讃の勤行集(増補版勤行集)が発行されましたね。全ての和讃に触れることが出来るのはありがたいのですが、和讃とはいえ原文そのものですから、現代語訳がほしいと思っていました。門徒さんからも、全国各地で出版されている現代語訳などの書籍を何種類か見てもらい、やはり現代語訳のものがほしいと強く要望されました。しかし、現代語訳を掲載した勤行本を本山で出せるのかというと、なかなか難しいのではないかと思っていました。

また、本山以外で作られた勤行本は、それぞれの組み立てで制作されているので、大体、赤本とはページが合わないんですね。門徒さんは赤本のページ数を覚えてみえるので、現代語訳が入っていてもページ数が合わないととても使いづらいんです。

そうこうするうちに、宗祖御遠忌法要のお待ち受けの取り組みが始まり、その中で、赤本とページ数を合わせた勤行本を作ろうという提案をさせてもらいました。ちょうど2007年に三木さんが大谷大学から自坊に帰ってこられたこともあり、この頃、何人かの方に声をかけさせていただき、高山教区での宗祖御遠忌の取り組みとして、現代語訳版勤行本の発行についての検討が始まりました。
 
【三木さん】
内記さんからは当初から「高校生でも、お母さんでも、手にとって分るものを作りたいんや」というお気持ちを聞いていました。法事の時に、正信偈を読める人はもちろん、普段は遠方で暮らしている若い人にも、ただ座っているだけでなく、教えに触れるきっかけになれば、ということがこの『正信偈同朋唱和集』に込められた願いの一つです。
 
【内記さん】
高校生でも分る言葉で発信しないと意味がない、ということを以前先輩から力を込めて言われたことが記憶に残っています。
 
【三枝さん】
高山での宗祖御遠忌法要では、同朋唱和の推進が教化の取り組みとして大きく掲げられています。『正信偈同朋唱和集』については、当初、現代語訳本をということが意図されてきましたが、編集作業を進める中で、自ずと御遠忌の同朋唱和推進や報恩講の回復の動きとも連動し、最終的には、その推進の一助となればという願いを体したものとしての発行となりました。
 
―編集作業においてご苦労された点は?

【内記さん】
やはり現代語訳だったと思います。
自分でお聖教を訳すなんてなかなかできません。現代語訳を出版している先生の話を聞いて制作することも考えましたが、結局、編集作業に関わる教区内のメンバーそれぞれが案を持ち寄り、先行研究を参考にしながら皆で話し合って訳を決めていきました。三木さんが編集の中心になっていただいたからできた仕事だと思います。
教区内の7人ほどで編集体制を整え、順番に正信偈から現代語訳の検討をしていきました。月1回の集まりから始まって、多いときには月に3回以上集まることもありました。
 
【三木さん】
複数の人がそれぞれ担当し聖教に思いを込めて訳を作っているので、その個性は大切にしたいのですが、一冊の本として、訳や表現のブレがあってはいけないと思い協議を重ねてきました。

三木朋哉さん
三木朋哉さん
また、現代語ではどうしても表現しつくせないことがあり、その場合は原文のままのほうがいいのではないか、ということもありました。「これでは訳してない」、一方で「表現しつくせない」という葛藤のなかで、どのように表現していくか大変苦労しました。たとえば、「無量寿」や「無量光」、正信偈や恩徳讃の助動詞「べし」、また御文の「あなかしこ、あなかしこ」などの表現ですね。
「あなかしこ」については、飛騨弁の「うたてぇこっちゃ」(ありがたい、申し訳ない、恐れ多い、かたじけないの意)に近いように思います。同じような意味では「こわいこっちゃ」という言葉もあるんです。作業中、いっそ飛騨弁バージョンで作ったらいいんじゃないか、と笑ったこともありました。
それで、2回、3回と校正を重ねる中で、現代語訳中に仏教の言葉をそのまま使った箇所には語注が必要ではないか?ということで、当初の構想にはなかった語注も作成することになりました。
 

語注1
語注1
語注2
語注2

 
―根気のいる作業でしたね。
―内容について工夫されたことがあればお聞かせください。
【三木さん】
正信偈を読んだ後、念仏と和讃(「五十六億七千萬」次第六首と「三朝浄土の大師等」次第三首)を続けて読みやすいように「報恩講のおつとめ」と題して巻末に増補しました。これは門徒さんのお宅での報恩講、在家報恩講の回復を願ってのことです。
 
【内記さん】
「まわり報恩講」(注※)を「三朝浄土の大師等」の三首引で勤めているんです。そのような地域性に合わせて作ったということです。
節譜についても高山教区で作りました。高山別院の列座の准堂衆が書いて本山の確認を取り、助言を得ながらの大変な作業でした。
あと工夫した点としては、本文、現代語訳、書き下しと、どうしても1ページあたりの文字数や情報量が多くなってしまうので、年配の方にも読みやすいような文字の大きさやフォント、配置などを皆で話し合いながら決めました。ちなみに題字は『教行信証』の親鸞聖人御真筆の字からいただきました。
 
【三枝さん】
赤本には無い掲載内容として、「真宗のおつとめについて」と題し、お勤めをすること、正信偈・和讃・御文についての解説を加えました。また、現代語訳という観点から、讃歌が中心の同朋奉讃式第一の掲載を取りやめ、かわりに編集途中で必要性が確認された語注の掲載を行いました。先ほども内記さんが触れられましたが、そういった一部内容の変更はしながらも、正信偈・念仏・和讃・御文は赤本と同じように使用できるようページ割の工夫がされています。
 
【内記さん】
発行についての議論をしていく中で、「勤行本を開いてもらう手立てをこちらが考えなくてはならない」と思いました。門徒さんは、お寺からもらったものは大切なものだからお内仏に片づけて、そのままになってしまう。そういうことにならないようにしなくてはならないと考えました。法事のときに持っていたらお勤めもできるし訳も読める。私のお寺では、七日参りにお経をあげないで正信偈、和讃を同朋奉讃で読むようにしているんです。
そうすると「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」のご和讃に反応する方がいらっしゃいました。現代に親鸞聖人の言葉に共感する方がいる。では、どのようにその言葉を伝える場を作るのかということを、いよいよ考えなくてはならないという気持ちになりました。
 
【三木さん】
葬儀場や介護施設など、不特定多数の人が集まる場に置いてもらい、手に取ってもらう工夫が必要ですね。
 
―真宗の盛んな高山の地でも変化はありますか?
【三枝さん】
全国的な傾向だと思いますが、ここ高山でも家の構図が変わってきています。お内仏のある生活というものがどんどんと弱ってきています。核家族化ということのなかで、お内仏や教えに触れない世代が増えていることを肌で感じています。
 
【三木さん】
門徒さんもそのことを実感しています。先日、ある門徒さんからひさびさに報恩講を勤めてほしいと言われました。お参りに行くと、よそに住んでいる娘さんやお孫さんに報恩講という仏事を伝えたいということで、この勤行本一冊ずつに一人ひとりの名前を書いて渡してみえました。「自分が大切にしてきた教えを伝えたい」という一心でやっておられました。そのようなお姿を見て大変嬉しかったです。
 
【三枝さん】
御遠忌法要教化の課題として「伝える・伝わる」ということが表明されています。お内仏に向き合う生活が大切にされ、そこにこの勤行本が何か役目をもっていけたらいいなと思います。
飛騨地域では、戦後、理由はよくわからないのですが、各家々の在家報恩講が一気に減少したと聞いています。それに代わるものというわけではないのでしょうが、お盆参りが盛んになっていったようです。高山教区は教勢調査の結果では良好な数値が多く出ており、全国的にも真宗の盛んなところと言われることがあります。しかし、在家報恩講が衰退してしまっているということの一点から、本当に真宗が盛んなのかと考えさせられます。
報恩講をこれからの時代にかなった形で取り戻していく、そのためにこの『正信偈同朋唱和集』が大いに活用されていくことが期待されます。この本は、発行して終わりにしてはいけないと思っています。
 
【内記さん】
昔から相続されてきているものとして、御回壇(注※)という行事があります。同朋会という形の集まりができてからは全体的に縮小しているということはありますが、お寺を会所としたものが圧倒的に多い。お寺がないところはお講という形で運営されているケースがいくつかあります。
 
―最後に、発行を終え、今後について思うところは?
【三木さん】
多くの方の協力でようやく出版することができました。しかし、これが完成品だとするのではなく、やはり必要に応じてリライトしていくべきものだとも思います。
あとは、勤行本ですので大切に取り扱ってほしいのはもちろんですが、家族の集まる居間などに置いて何気ないときに手に取ってもらうなど、身近なものとして使っていただきたいです。
 
【内記さん】
同朋会運動が始まり、先輩方が同朋奉讃という画期的なもの定められました。今になって、そういう願いを継承するということの大切さを改めて感じています。これまでその時々の表現、伝達手段を含めて更新してきたのですから、当然次の表現が出てきていいのでしょう。
まずは、声に出して読んでほしいです。声の響きで正信偈や和讃を伝え直してほしいのです。私たちには、勤行という形で残された歴史があり、教えの言葉に日々触れていくという形を整えてもらっているのです。
その中に今の自分もあります。それは実はこちらが思っている以上に大きいことのように感じるのです。

正信偈同朋唱和集 ―現代語訳付―
正信偈同朋唱和集 ―現代語訳付―

 

現代語訳付
現代語訳付

<注>
※ まわり報恩講:在家報恩講の飛騨の一部地域での別称。
※ 御回壇:年に一度、高山別院輪番(又は代理の使僧)が歴代御影と消息(現在は総序の文)をお連れして、各寺院及び数ヶ所の会所を巡回し法座を開く。
※ 『正信偈同朋唱和集―現代語訳付』については、高山教区・高山別院の宗祖御遠忌法要懇志金の記念品として発行されました。他に有償版もありますが、現在のところ高山教区内優先とさせていただいています。