― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈3〉 歯黒 善西
(『すばる』724号、2016年9月号)

 

善西肖像画(歯黒啓二家所蔵)-すばる

「歯黒善西肖像画(歯黒家所蔵)」

1、惣仏を本尊とする「廻り道場」

近江周辺地域に、常設する特定の建物はなく、門徒集団内において本尊(方便法身尊像〈阿弥陀如来絵像〉や六字名号〈「南無阿弥陀仏」〉など)を回り持ちし、各門徒宅にて法要を営む「(まわ)り道場」という形態の道場が散見されます。

 

19世紀初頭に近江国蒲生郡(がもうぐん)で編纂された地誌の『蒲生旧趾考』には、滋賀県日野町内池にて戦前まで継承されていた、蓮如上人筆六字名号を40軒余りで「廻り道場」にて守ってきた馬渡道場を紹介しています。このような形態は、何らかの理由で道場(常設の建物)廃止後に、門徒宅が交代で宿を務めて法要を執行したことに始まるようです。

 

こうした「廻り道場」の本尊は多くの場合、道場が開かれる際に本山から下付された方便法身尊像であり、門徒集団の共有仏として認識され「惣仏(そうぶつ)」と称されました。

 

 

2、歯黒善西開基の「廻り道場」

日野町奥之池(おくのいけ)には「歯黒講(はぐろこう)」という「廻り道場」が継承されています。以前には開基と伝える「歯黒善西(ぜんさい)」の名称で呼ばれる道場・講でした。

 

寛正6年(1465)に京都東山の大谷本願寺は、比叡山衆徒によって破却された、いわゆる「寛正の法難」に遭います。そのため本願寺8世蓮如上人(1415~99、在職1457~89)は、近江の各地を転々としましたが、その足取りは、はっきりとしていません。

 

時代は下り、文政期(1818~30)になってから近江国日野でまとめられた伝記(『蓮如上人御隠棲実記』『蓮如上人隠棲絵伝記』)によると、蓮如上人は日野に5年間隠棲していたと伝えています。蓮如上人は、日野音羽城主蒲生貞秀により、西明寺清水谷に鳩摩羅庵(くまらあん)と号する庵室を建ててもらったと言います。

 

その日野の奥之池村に住む百姓の新右衛門は、西明寺庵室に隠棲する蓮如上人に教えをうけて弟子となりました。そして「歯黒」という苗字と、後には善西という法名を賜りました。歯黒という姓の由来は、新右衛門が男であるのにお歯黒をしていたためとも、隠棲中の蓮如上人が、歯を染め女装をして新右衛門のもとに潜伏していたためとも言います。少なくとも天明3年(1783)には「新右衛門」という屋号の家がありました。また村内に蓮如上人が説教をした際に座ったと伝える蓮如上人腰掛石も現存します。

 

奥之池は、四方を丘陵に囲まれた小さな村で、村内に寺院はなく、3分の2が近隣村にある普光寺(浄土真宗本願寺派、日野町佐久良)の門徒です。その普光寺門徒による歯黒講の本尊は、蓮如上人時代のものと考えられる方便法身尊像で、仏壇に安置されています。ただしこの仏壇を預かる家は次々と移り変わります。その仏壇を預かって法要を勤めた家は「道場」あるいは「道場元」と称していました。現在は仏壇を預かる家を「道場さん」と呼んでいるそうです。少なくとも19世紀以降、奥之池の道場は、道場元が次々と変わる「廻り道場」の形態でした。

 

ただし「歯黒講」という名称の初見は昭和33年(1957)で、寛政10年(1798)の『蓮如様御遠忌入用』には、この講を「当村講中」「歯黒善西」と呼んでいたとあります。それは歯黒善西が開基した道場・講として認識され、開基した人物の名で呼ばれていたためです。

 

また天明3年(1783)には「惣仏」と称するものを所有しており、現存する蓮如期頃の方便法身尊像を指すと考えられます。もとは百姓の歯黒善西が機縁となり、その子孫らによって、蓮如上人の教化による真宗の教えが、現代まで湖東の山あいの村落に伝えられています。

 
■参考文献

松金直美「近江の「廻り道場」―近世後期における「惣」道場の一形態―」(『宗教民俗研究』第17号、2007年)

 
■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)