― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈7〉理綱院恵琳師
(『すばる』728号、2017年1月号)

 

理綱院慧琳肖像画(西弘寺所蔵)

「理綱院恵琳師肖像画」(西弘寺所蔵)※写真提供:同朋大学仏教文化研究所」

 

1、学寮創建と「講師」の職制確立

本願寺教団は東西分派後、西派は寛永15年(1638)に、東派は寛文5年(1665)に学寮を創建したと伝えられています。東派では、東本願寺の飛地境内である渉成園内に学寮が設けられたとされています。ただし当初、学舎としての講堂は備えておらず、講義は東本願寺寺内の東坊(ひがしのぼう)(現・東光寺:京都教区山城第1組、京都市下京区)にて行われたといわれています。その後、延宝6年(1678)になってから、渉成園へ講堂が建てられました。そして宝暦5年(1755)、高倉通りに移転し拡張され、高倉学寮と称されるようになりました。

 

学寮における学事の最上位の職を「講師」といいます。正徳5年(1715)に恵空(えくう)(1644~1721,「真宗人物伝〈19〉光遠院恵空師」)が初代講師となったとされるのですが、この頃は講義の担当者をその時限りに講師などと呼んでおり、「講師」の職制や待遇が定められていくのは、50年程を経てからになります。当初の学寮は、堂僧(御堂衆)という、特定の僧侶のために設けられた学問所であり、一般僧侶の習学を目的とはしていなかったようです。

 

宝暦7年(1757)、本講(夏安居)の他に春と秋に行われた講談をつとめる「擬講」の職が定められ 、そして明和3年(1766)7月、「講師職制覚」により、「講師」の職制や待遇が定まりました。この時の講師が理綱院恵琳(りこういんえりん)師(1715~89)で、のちに第3代の講師として数えられるようになります。そして、講師・嗣講・擬講の三講者の制度が成立していきました。明和3年(1766)7月に、一般僧侶はすべて本山の学寮へ詰めて、講談を聴聞するように命じられました。つまり、学寮が一般僧侶の教育を一元的に行う機関へ位置づけられていったと言えます。学寮では、夏講(夏安居)と秋講などを中心に教学が研鑽されていきました。

 
2、恵琳師の生涯

学寮の機構が整備された時期に講師であった恵琳師は、伊勢国願了寺(三重教区中勢2組、三重県津市)の生まれで、のちに同国西弘寺(三重教区南勢1組、三重県松阪市)慈空の養子となった人物です。第2代講師の香厳院恵然(こうごんいんえねん)師(1693~1764)の門下で学問を研鑽し、明和2年(1765)に講師となりました。講師に就任した翌年である明和3年(1766)5月3日付で恵琳師は、後桜町天皇(1740~1813)から、「権律師(ごんりっし)」を免許されたことを示す文書が、西弘寺に伝わっています。

 

同3年、越後国の了専寺と久唱寺の間で、三業帰命(さんごうきみょう)(衆生が救済を求める際には身口意(しんくい)の三業で帰命の心をあらわさなければならないとする)の異義をめぐる法義争論が起こり、この事件に対する裁定を行ったのが恵琳師でした。三業帰命説をめぐる争論はその後、西本願寺教団における最大の争論に展開し、最終的に19世紀初頭、幕府が介入するに至った、「三業惑乱」と呼ばれる事件として知られています。恵琳師による裁定は、「講師」職に就任して間もない学寮講者によって示された、三業説に対する最初期の批判として位置づけることができ、真宗教学史における恵琳師の重要性が感じられます。

 

恵琳師は、寛政元年(1789)に75歳で没しましたが、辞世の句を記した墨書が西弘寺に所蔵されています。

いまこそは
ちりの浮世をすてはてゝ
かねてたのミし
御ほとけをミん

生涯をかけて仏教を学んだ末、まもなく濁世をはなれて阿弥陀如来の国である浄土へ趣くことに迷いのない心情が読み取れる句ではないでしょうか。

 
■参考文献

松金直美「僧侶の教養形成―学問と蔵書の継承―」(『書物・メディアと社会』シリーズ日本人と宗教―近世から近代へ第5巻、春秋社、2015年)

 
■執筆者

松直金美(まつかね なおみ)