目次
おのおの十余か国のさかいをこえて…
【本文】
一、おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからがくしようば、南都北嶺にも、 ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすにたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
【意訳】
あなたがたが、今までいのちがけで道を求めてこられたその目的は、ただひとえに、見せかけの幸せにとらわれない明るい生き生きとした人生をあきらかにしたい、という事にちがいない。 それなのに今まであなた方と一緒に歩んできた念仏の人生のほかに、もっとすぐれた道があるのではないか、とか、あなた方の知らない秘密の仏教理論を私が知っているのではないか、などと疑っておられるならば、それはとんでもない誤解だと言わなければならない。もしそういう事に納得がいかないとしたら、奈良や比叡山にすぐれた仏教学者が大勢おられるから、その人たちにお会いになって、明るい人生に眼をひらくための要となる理論を心ゆくまでお聞きになるがよい。この親鸞は、ただ南無阿弥陀仏の教えに導かれて阿弥陀の世界に生きよ、と勧められる法然さまの教えの通りに生活しているだけなのである。
【理屈などいらない】
「念仏しても何のご利益もないじゃないか、 そんな念仏を続けていくと地獄に落ちるぞ」と念仏を批判する人たちが関東の地にあらわれた。だが、はじめのうちは、昔、親鸞さまのもとで教えを受けたことのある人々は、もちろんこのような非難に耳をかさなかったにちがいない。だが数の力というものは恐ろしい。そのような批判勢力が大きくなってくると、今までゆらぐはずがないと思っていた自信がぐらぐら根底からゆれ動きはじめる。 いつの世にあっても、これを信じれば不幸がなくなる、病いが治る、商売がうまく行く、と、目さきのご利益を繰り返し繰り返し説かれると、はじめは「そんなばかな事があるものか」と、問題にもしなかった人も、「あの人も信じたのでたたりがなくなった」とか、「あの人は念仏をやめたから病気が治った」などと、証拠までつきつけられて説得されているうちに「もしかしたらほんとうかもしれない」と、心が動揺しはじめるものである。そして知らず知らずのうちにその仲間に加わり、そのご利益を讃える集団の中にいると、あたかも酒に酔ったように自分が救われたような錯覚をおこし、感激にむせび泣くような雰囲気がかもしだされる。そんな狂信的な姿を見ていると、今まで念仏の教えに育てられてきた人たちまで不安を持つようになる。 「ことによったら親鸞さまも特別な修行で救われたのではないか。もしそうだとしたら馬鹿正直に言われた通りに念仏してきた私たちこそいい面の皮だ」という疑いが生まれる。あるいはそういう人に対して、「親鸞さまがうそをつくはずがない。言われた通りに念仏していればよいのだ」と叱りつけ、動揺する自分の心に言いきかす人もでてくる。
そしてついに不安に耐えきれず、京都までいのちがけで足を運んだ人たちを前に、親鸞さまは「あなた方の道を求める目的は何だ」と問いつめられている。これはとてもきびしい言葉なのである。私たちの日常生活では、何事も新鮮なうちはよいが、その事に慣れてくるとだんだん感激がうすれ、マンネリの生活に戻ってしまう。 念仏の教えを聞くのも同じこと。私のみじめなあきらめの姿勢をうち破り、明るい生活の方向がはっきりしてきたはずなのに、耳なれてくるといつのまにか念仏というお城にとじこもり、その教えを批判したり、ばかにしたりする者が現れると、眼の色を変えて、相手を敵視し、相手をやっつけないと気がすまなくなる。自分では、尊いお念仏の教えを守るために論争しているつもりなのだが、 実際にはお念仏を利用して自分の自尊二 心を傷つけないように意地をはっているだけであろう。「念仏など信じてばかを見た」と言う人も「念仏を非難する奴はけしからん」と憤る人も、自分では気がついて ないが、ぬくぬくと安眠をむさぼれる生活をこわしたくない、という点では全く変わりないのである。 だかこそ親鸞さまは、「私たちの今一番大事な問題は、念仏が正しいかまちがっているか、ではなくて、私の生活が生き生きとしているだろうか、というところにある」と問題の焦点をはっきりさせているのである。
問題の本質を忘れると、寒々とした理屈の骨組だけが残ってしまう。 例えば、風呂からとびだしてなかなか衣服を着けようとしない子に「早く着ないと雷さんにおへそを取られますよ」と、おかあさんが注意する。そうすると現代の子は必ず「雷なんて電気だ。へそなど取るわけがないだろ」と口答えする。そんな時へそ取り論争をやって行くと、 おかあさんはだんだんイライラし、子どもは意地を張って理屈をふりまわし、最後は子どもを泣かせ、おかあさんも後味のわるい思いをせねばならない。本筋を忘れなければ事は簡単なのだ。 子どもが早く服を着さえすればよいのだから、子どもが理屈を言いはったら「そうだね」と相槌をうって手の方は休まずに子どもをつかまえて着せてしまえばそれでよいのである。理屈の争いになると、必ず勝つか負けるかだけが問題となり、自尊心の傷つけ合いになるだけである。 夫婦げんかをするとその事がよくわかる。始めは必ずはっきりした意見の対立がある。ところが感情的になってくると、かんじんの論争点などどうでもよくなって、ただ体面と意地の張り合い、相手に勝つことだけしか考えなくなるではないか。
親鸞さまは「自分自身の人生の一大事を問題にせずに、他と論争して勝つための念仏の理論を学ぼうと思うのなら、 最高学府比叡山を勝手に退学して法然さまのもとに走った私のような野僧にたずねるよりも、今をときめく奈良や比叡山の権威のある学者先生の理論を学ぶ方があなた方のためになるであろう」と突き放されている。 親鸞さまは、念仏論争などして、相手をやりこめ、自分の自尊心を守る必要など何もなかったのであろう。「私はただ法然さまの教えのように」という心境はちょうど幼い子が「おかあさん」と呼ぶのによく似ている。 そこには「なぜおかあさんと呼ぶ必要があるのか」 などという理屈はない。それは真宗の先学、暁烏敏先生が「十億の人に十億の母あれど、 わが母にまさる母ありなんや」とうたわれたように、その子どもにとっては、理屈抜きでそのおかあさんでなければならないのである。 自分の口から出た 「おかあさん」という言葉の中に、子どもは決して自分を見捨てることのないあたたかい心のはたらきを味わっているのだ。
親鸞さまが「南無阿弥陀仏」と念仏するときには、その仏の名の中に自分を絶対に見捨てることのない阿弥陀の本願が生きていたのだ。 そのこころにめぐりあうとき、どうでもよい事にとらわれて、意地だ、体面だ、面子だと言ってくよくよ生活している狭い心の垣根がとり払われて、理屈も、言いわけもいらないのである。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてや…
【本文】
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
【意訳】
念仏はほんとうにあなた方が考えるような極楽浄土に生まれる種子なのか、それともあなた方が考えるような地獄へ落ちて行くいとなみなのか、そんな事は私には何のかかわりもないことだ。私はたとえ法然さまにだまされて、念仏に導かれて地獄へ落ちたとしても、何の後悔もしないのである。
【正直者はばかを見ない】
親鸞さまは昔、関東の地で一貫して念仏して浄土に生まれる道を説いておられたのだから、今さら、念仏は極楽行きか、地獄行きか、そんな事はどうでもよい、などと言うのはとても無責任に聞こえるかもしれない。だが忘れてはならない事は、仏教の用語ほど誤解されやすいものはない、という事である。 「地獄極楽なんてあるわけないだろ。だれも見た者はいないし、信じられるはずがないではないか」と、近頃では小学生でも勝ち誇ったように批判するではないか。しかし問題は、地獄、極楽などない、と批判する人が頭の中にえがいている 「地獄、極楽」とは何か、という事である。 みんなわかったような顔をして、「地獄、極楽などあるはずがない」と言うけれども、私たちが頭の中に考えているような地獄、極楽など、はじめからどこにもなかったのではなかろうか。「昔の人は迷信深かったからそういうものを信じたけれども、現代人の私はそんな事を信ずるほどばかじゃない」とでも思っているのではないか。 しかし、昔の人はほんとうにそれほどばかだったのだろうか。今、子どもでも信じられないようなお伽話を、法然さまや親鸞さまがいのちがけで求めるはずがないではないか。『歎異抄』を学ぶとき、忘れてはならないことは、自分の先入観ほどあてにならないものはない、という事であった。阿弥陀本願、念仏、浄土などの大事な言葉について、自分勝手に解釈してはじめからまちがった先入観を抱いてはいないだろうか。同じ言葉が使われていても、 その言葉の意味が人によって違うのでは、対話などできるはずがないではないか。
関東から上洛した人々を前に、もし親鸞さまが「今さら何を言うか。念仏さえすれば必ず浄土往生まちがいなし。 疑うのは勉強が足りないからだ」などと教えたらどうなったであろうか。おそらく人々は「親鸞さまがそう言われるのだから絶対まちがいない」と、一応安心して帰路につくであろう。だがやがて前と同じように「念仏は地獄行きのばち当たりの生活だ。あなた方はだまされているのだ。その証拠にはあの人も念仏したためて病気が重くなったではないか。あの家は念仏など信じたから火事に見舞われたではないか」と脅かされるならば、また「そうかもしれない。このまま念仏していてよいのだろうか」という不安が頭をもたげてくるにちがいない。親鸞さまが言うのだからまちがいない、と思いこもうとするのは権威主義である。みんな虎の威を借りる狐になっている。 権威に盲従する者は自分の都合のよい間はそれに満足して、その権威をふりまわしているが、一旦その権威が落ち目になると、「あんなものを信じてばかを見た、損をした」「あんな人の言う事を信じなければよかった」と怨み敷かなければならない。
例えば、色つき食品でも、洗剤でも、薬品でもテレビなどで宣伝され、みんなが競争して手に入れようとしている時には、それを使わなければ時代遅れのような気がしていたにちがいない。それが一旦、研究室の実験台にのせられて、発ガン性物質が含まれているなどという判定がくだされると、一転して今まで神さまのようにあがめられていた大メーカーが大悪党に変身し、「あんな物を買わなければよかった」 「私たちはだまされていた。責任をとってくれ」と開き直らなければならない。 公害の人体実験をするような悪質の企業は、もちろん批判されなければならない。しかしそれと同時に、底無しに肥大していく欲望を目あてにつくった釣竿につけられた、見せかけの権威のえさに、だまされて喰いついて行く愚かな私を忘れてはならない。
親鸞さまを絶対的権威にまつりあげてしまうと、私の人生に私が責任をとる事ができなくなる。だから都合のよい時だけ、自分が念仏者であることを喜ぶけれども、いざ自分が都合わるくなると、全責任を親鸞さまになすりつけ、自分は高処の見物席に逃げてはいないだろうか。
たとえだまされて地獄へ落ちてもよい、と言うのは、決してやせがまんで言っているのではない。全責任を背負って生きる人の言葉なのである。 よく、正直者はばかを見る、と言うけれども、ばかを見るような者はほんとうの正直者とは言えないのではなかろうか。あとでばかを見るのは、はじめから疑いがつきまとっていたからであろう。 幼児を観察すればその事ははっきりする。現代のイライラ病にかかった恐ろしいおかあさんに、どんなにどなられても、いや味を言われても、泣きながらでも「おかあさん、おかあさん」と、あとについて行くではないか。絶対信頼の世界では、安心して泣き、だだをこね、ふくれっ面ができるし、おかあさんもまた、本気になってどなりつけることができるではないか。
そのゆえは、自余の行もはげみて…
【本文】
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
【意訳】
なぜならば、もし私の歩む道がたくさんあって、その中から念仏の道をえらんだためにひどい目に会ったのなら、先生にだまされてこんな道をえらんでばかを見た、という後悔もあるかもしれないが、 この道を歩むよりほかに私の人生はないことがわかったかぎり、たとえその途中で傷だらけになっても、ただ黙々と生き抜いて行くだけなのである。
【代理人はやめよう】
娘さんが嫁に行けば、だれが見てもまちがいなくその嫁ぎ先がその人の家なのであろう。ところが実際にその家に身を置くようになっても、まだ自分の生まれた家を「実家」と呼ぶのはなぜだろうか。生まれた家が「実家」なら、嫁ぎ先の今生活している家は「仮の家」になってしまうではないか。
嫁入りする時にはだれでも夢をえがき、可能性を信じて行くのであろう。 結婚式をすませ、まわりから祝福されて新生活を始めた花嫁の顔は喜びにあふれている。ところが、それから踏みだして行く実際の家庭生活は、そんな甘い公式通りには動いて行かない。だから嫁ぎ先での生活が自分のつくった青写真通りになっている間は「嫁いできてよかった」と、この家こそ私の家だと思っているが、ひとたび自分の期待が破れると、「こんなはずではなかった。実家へ帰りたい」と、自分の境遇をのろい、その家は、仮に身を置く家に変身する。 身体は嫁いで来ているのに、心は生家に置き忘れてきているらしい。ところが十年二十年と、家庭の主婦としての苦労を重ね、その家に根をおろすようになると、・・・・・・