第一七七条

蓮如上人、仰(おお)せられ候(そうろ)う。「方便をわろしという事は、あるまじきなり。方便をもって真実をあらわす廃(はい)立(りゅう)の義、能(よ)く能(よ)くしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善(ぜん)巧(ぎょう)方便によりて、真実の信をばうることなる」由、仰せられ候うと云々  (『真宗聖典』八八六頁)

 

東本願寺_2[1]「方便は悪いことである、と言ってはいけません」。この条はこの言葉で始まります。そうおっしゃる蓮如上人の背景には、方便が悪いことであるという認識が御同行のなかにあったと思われます。

この認識はどこから出てきたのでしょうか。「嘘も方便」ということわざを例に考えてみましょう。このことわざの本来の意味は「嘘をつくことも、方便(物事を円滑にすすめる手だて)として必要なときがある」ということです。この意味で使用される限り、方便が悪という認識は出てきません。出てくるのはむしろ善という認識です。

一方、このことわざは「嘘をつくことも、方便(人をだます手だて)として許される」という誤った意味でしばしば了解されます。すると、方便は悪であるという認識が出てきます。

蓮如上人の時代にこのことわざがあったかどうか分かりませんが、このような世間的な意味での方便と、仏教における方便を混同する御同行に対し、仏教における方便を上人は語っていきます。

「方便によって真実が立ちあらわれて、真実が立ちあらわれるをもってその方便は廃(はい)される」。このように上人は続けます。仏教における方便とは、人々を真実に引き入れる手だてのことです。では、この文で語られる「方便」、「真実」は何を指すのでしょうか。注目すべきは、この文が「真実が立ちあらわれて、…方便は廃される」と、「廃(はい)立(りゅう)の義」で述べられていることです。廃立といえば、法然上人の著した『選択集』の、

諸行を廃して念仏に帰せんがために、しかも諸行を説くなり。(『真宗聖教全書』九四九頁)

が思い出されます。この文をさきの文に照らしてみると、方便が諸行、真実が念仏を指すと考えられます。「諸行によって念仏が立ちあらわれ、念仏が立ちあらわれたところで諸行は廃される」ということを蓮如上人はおっしゃっているのでしょう。

「弥陀・釈迦・善知識の巧みな方便によって、私たちは真実信心を得るのです」。さらに上人は、方便する主体として弥陀・釈迦・善知識をあげ、これらのはたらきによって私たちは真実信心が得られると語ります。弥陀・釈迦・善知識といえば、苦悩の衆生を見そなわし、そのような衆生を救わんとして、真実からかたちをとってあらわれた方便法身あるいは応化身と仰がれる存在です。そういう存在による方便ですから、仏教における方便とは、真実と別にあるのではなく、真実のはたらきそのものであると知られます。

ところで、この方便は、教化といいかえられるでしょう。すなわち、教化の主体は私たちではなく、弥陀・釈迦・善知識であることが知られます。ですから、私たちがどんなに巧みに教化しようしても、それは悪(わる)巧(だく)みになってしまうのです。

以上より、仏教における方便とは、真実を根拠とし、私たちを真実に引き入れていく、弥陀・釈迦・善知識を主体としたダイナミックなはたらきといえます。そのような方便のはたらきによって、真実信心をいただいていきたいものです。

(教学研究所研究員・安藤義浩)

『真宗』2014年10月号「教研だより amurtaアムリタ99」より