ひと粒の美しい粒のように
ひと粒の美しい露のように

白隠禅師のもとで修行をしていた小僧が、味噌の摺鉢をこわしたとき、禅師が言った一語が「時節因縁(じせついんねん)」ということばであった。これだけではわかりにくいと思うが、因縁によって生じ、因縁によって滅するという道理を言ったものである。別のことばで言えば、壊れる時が来たのだということである。簡単なことのように思うけれども、生じたものは必ず滅ぶという仏の教えが本当にこの身にいただけるということは容易なことではない。

それが容易でないというのは、生活の中で納得するということが難しいということである。いつか家内があやまって私の愛用していた夏茶碗をこわした。2つになったものを持ってきて、両手でそれを合わせているのを見て、何か人間のもつ執念を知らされた思いがした。こわれたものは元へはかえらない。もとのままなのは人間の執念だけである。もし、私に「時節因縁」という言葉がうかんだら、私も家内も、茶碗がこわれたことが仏法をいただくご縁となったことであろう。

親鸞さまのお便りの中に

「何よりも去年(こぞ)・今年(ことし)、老少男女多くの人びとの死にあひて候らんことこそ、あわれに候へ。ただし生死無常の理(ことわり)、くはしく如来の説きおかせ在(おは)しまして候へば、驚き思召すべからず候なり(末燈鈔)」

との一文がある。若いころ、この便りを読んで、何か親鸞というお方は冷淡な人のように思ったものだ。去年も、今年も人が死んでいくが、さのみ驚くことでない、といわれているということが腑におちなかったものである。

しかし、今にして思うと、それはこの世の道理であるとの仏の仰せをのべてくださったものだとわかるようになった。

生まれたものは必ず死ぬる。この法則は私に、死ぬべきものが今日ここに生かされているということを知らしめてくださる。壊れてゆくべきものが今ここに存在するということに気がつきはじめてみると、人生の見方が一転するだろう。目の前の灰皿にして、やがて壊れていくべきものが今ここにあってくれているのである。そこには、自他を1つに結びつけるような、深い愛情を感ずる世界が開けてくる。常住(じょうじゅう)なるものは何一つなかったということが知らされるということは、人間を悲観のどん底においやることでなく、かえって永遠なるもの不滅なるものの領域を信知させてくださることである。

ひとり暮らしの老婆で、八十数歳にもなっておられる人であるが、仏法を大切にされるホームヘルパーの方に、最近送られたお便りの最後に、次のような言葉がのせてあった。

一粒の美しい露のように
ひかりを受けて精一杯かがやこう
そして、その時が来たら、静かにきえてゆこう

『今日のことば 1975年(4月)』 「咲くも散るも 花のいのち」