最近、金子大榮先生の本を読んでおりましたときに、印象に残る言葉にであいました。「解法慢」という言葉です。天親菩薩の『十地経論』という書物のなかに出てくるのだそうですが、「わかる」とか「知る」ということの問題を教えてくださっているのではないかなと思います。
「解法慢」とは、法がわかったという慢心、思い上がりです。菩薩が道を修めていくときに、それぞれ違った形で三度の解法慢が出てくるのだそうです。
1つは、自分で考えて自分でどうすべきかを決めることができる。だから教えなどは必要ない、という慢心です。仏教なんか聞く必要がないと、聞いたこともないくせに、この程度のものだと見切ってしまうわけです。

金子先生は、個別に名前を付けておられませんが、勝手に名づけてみました。これはいまだ聞かずしてわかったという慢心ですから「未聞解慢」ではどうでしょう。「不」でもいいかもしれませんが、やがて聞くかもしれませんから、やはり「未」ですね。
この慢心は、教えにふれたときに、自分がいままで考えていたようなことは、すでに何百年も何千年も前から言われていた。あるいは、自分が考えてわかったこと以上のことを、すでに言い当てられていたということにであったときに破られていく。そして、やはり教えを聞かなければならないとなって、聞きはじめるわけです。

そうるすると次に出て来るのは、聞いたらわかったという慢心です。名づけるとすれば、聞いたらわかった「未聞解」の「未」がとれて「聞解慢」ではどうでしょう。私は教法を理解した、説いてあるところがわかった。私はその境地に入ったと、これもしばしば起こることです。

その慢心が破られるのは、教えの永遠性といいますか、普遍性によってです。つまり、自分が知り得たことはごく一部でしかないのだということに気づかされていくわけです。これは、仏教のなかでは重要な問題でして、わかるとか、知るということと、自分が何を知らないのかという問題です。無明ということで問題になる領域です。自分に見えていないところがある、ということまではわかるのですけれども、何が見えていないのかということは、誰もわからない。つまり、自分が何を知らないのか、ということを知らないのは、誰も同じです。そういうことを聞いて、この「聞解慢」もやがて必ず破られていかざるを得ない。わかったということは、わかったことしかわかっていない。あるいは、わかりたいようにしかわかっていないのですから。

それが破られると次に出てくるのは、教えというのは非常にすばらしい、自分の想像をはるかに絶するものである、それほどすごいのだとほめたたえる。真理というのは非常に魅力がありますから、それだけ私たちを引きつける力も強い。そこにまた、慢心が張り付いてくるのです。これは「わからない」ということがわかったというわかり方です。聞いてわかったことなど物の数ではない、もっとすごいものなのだ、私ごときではわからないということがわかった、それほど、法というものはすばらしいものである、と。

ちょっと聞くと、なかなか素晴らしい認識のような気がします。そういうことをおっしゃる方は、私たちの周りにもたくさんおられるような気がします。しかし、これも「わかった」ということのひとつのかたちですね。だから慢が張り付く。それも慢心です。名づけるならば「解了慢」ではいかがでしょう。

なぜそれが問題なのかというと、わかってしまうと、歩みがそこで終わってしまうからです。先に進む必要がなくなっていく。たとえば、仏法についてよく聞く言葉で「わからん」というのと、「わからんもんや」というのがあります。この2つの言葉は同じことだと思いますか。「仏法がわからん」というのと、「仏法というのはわからないものだ」とは。「わからないものだ」というのは、もうわかってしまっているのでしょう。さとりすまして、人に解説している。「わからない」というのは、わかりたいという思いがあって、問いや課題になっていることが現れています。「わからない」は、歩んでいこうとしていく人の言葉ですけれども、「わからんもんや」は歩むことをやめた人の言葉です。この「わかった」という思いは、非常にやっかいなものです。慢心の種になる。