こういうことが私たちの周りで、どういうかたちで現れてくるかと言いますと、自分には信心があるのだろうかないのだろうか、あるいは自分の信心はこれでいいのだろうかという「信心コンプレックス」となる。

このことは私自身の中でも問題になったことの1つです。真宗の教えにであった当初は、この教えはすばらしいという感覚を持ちながら、自分ではお念仏を口にするのが嫌な時期がありました。先ほどいいました、「信心がはっきりするまでは念仏をしなくてもいいのではないか」「信心がなければむだなのだ」というような考え方は、私自身の経験でもあります。

やがて自分の口から「南無阿弥陀仏」と念仏が出るようになったのですが、それからも、しばらくの間はコンプレックスがありました。お説教を聞きに来ている人のなかに、ほれぼれするようなお念仏をされる方がいらっしゃいますね。心の底からお念仏が出てくるとしか言いようがないような、そういう人を見ると「かなわないなぁ」という感じがしました。それにひきかえ自分の念仏はどこか空々しいと感じたのです。自分とその人のお念仏とがどこか違う、という思いがありました。その違いは何かと考えると、その頃の私には、とどのつまり「信心」の違いになるとしか思えなかったわけです。私自身は「信心」という言葉を、そういう使い方で、それは意味の理解ということになるわけですが、ずっと考えていました。

つまり「信心」がはっきりしている人がお念仏するのと、それがはっきりしていない人のお念仏とは違いがあるのだろうかないのだろうか。違いがあるとすれば何がどのように違い、ないとすれば、あってもなくても同じことなのかなどと、この問題を考えていました。空々しく聞こえるお念仏と、ありがたそうに聞こえるお念仏がある。このことは信心一異と、念仏一異と言ってもいいですが、同じ問題なのではないかと思います。

私自身のなかでは、この問題については、比較的早く結論がでました。念仏は同じだと。道理としてそうでなければならないはずなのです。念仏が、称えた人によって本物になったり偽物になったりするというのは、どう考えてもおかしいのです。だから念仏は、誰が称えても同じでなければならない。この結論は、私自身のなかでかなりはっきりしました。そのことを、いろんな機会にお話ししあした。

そういうことを続けていますと、だんだんみなさん答えを覚えてしまうようになりました。私が、「信心を喜んでいるおばあちゃんと、3、4才のお孫さんが見よう見まねでするお念仏は同じだと思いますか、違うと思いますか」と尋ねると、最初のころは、考え込むような顔をされたのですが、何度も同じお尋ねをしていると、そのうちにみなさん、「同じだ」と応えるようになりました。学習効果といいますか、私がそれを尋ねたら「同じだ」と言えば間違いないと、「答え」を覚えてしまわれたのです。

ところが、座談会などでじっくり話すと、「それでも、何か違わないとおかしいでしょう」という言葉がでてくるのです。「答え」は知っていても、何かわだかまりが根づよく残っていて、何かそこにもうひとつ得心がいっておられない方がおられる。

そこにある問題が何なのだろうということを考えざるを得なくなりました。そこで思いいたったのは、このことを、ずっとお念仏を称えるひとに「信心」があるかないかという問題として考えてきたことにあるのではないかということです。「信心」という言葉を、念仏を称えることに意味づけするような意味で使っていたことが、もしかしたら間違っていたのではないかと。信心のある人とない人が、念仏をしたら意味に違いがあるかないかという問題の枠組みでは、2人の人しか考えられていないのですが、実は、そういうことを考えている私自身が、また別にいるわけです。つまり問題の枠組みに含めて考えなければならないのは3人いるのです。2人の称名する人に対して、もう1人は聞名の人です。

私には、信心の有無やその真偽・優劣を判定する能力も資格もないくせに、称名する2人には信心の有無や真偽・優劣があると想定して、その両者が違うか同じかなどと比較していた、そういうことをしている人こそが問題にされなければならないのではないか。見ている側のまなざしが問われていく問題なのです。信心がある人がお念仏を称えたらありがたく感じ、ない人が称えたらさほどでもないと。このようにお念仏する人に勝手に条件づけをして、それによって、お念仏の価値に差が出てくるような考えになっている。称えるひとに違いがあるとして、その違いに、価値づけに差をつける。差があるのだという目でしか見られない者の問題なのではないかと思うのです。

極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、称える人に、信心なんかあっても、なくてもいいのです。少なくとも聞名する者には何の差し支えもない。つまり信心とは、お念仏を聞く側に立つときに必要なのではないか。