本願の成就文にもあ「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(聖典44頁)とあります。お名号を称えて信心歓喜するとは書いていないのです。その名号を聞いた者のところに喜びが生ずる、とあるのです。

私たちはいろいろな人に接するときに、その人がどういう肩書きや資格をもっているかによって、対応のしかたを変えていくというようなことをします。ときには、それが差別というかたちをもって現れる。その人は何者であるかというその人の属性によって、こちらがその人に対する評価や態度を変えてしまうということです。それと同じようなことが、信心の有無をその人の属性であるかのように見てしまうことによって起こってくるのが、この問題なのです。

問題なのは、称えている人に何があるか、ではなくて、それを同じように聞けるかどうか。その人が持っている属性には無関係だということを、信心ということにおいて言い切れるかどうかなのです。

「信心」を、称える人の属性の1つとしてみたのが、勢観房・念仏房だったのです。だから、法然上人と親鸞聖人とが、同じであるとは思えなかった。法然上人と親鸞聖人とが、同じであるとは思えなかった。法然上人と親鸞聖人とは、信心以外のことについてはまったく違う。けれども、そのことが往生ということにおいては、有利にもならないし、不利にもならない。なんらの差ももたらさないということを、きちんとふまえておられた。そのことをはっきりと見すえられているかどうかということが、実は信心という言葉の意味するところなのでしょう。

「ただ信心を要とす」、「信心は大事だ」と言っているだけでは、勢観房・念仏房たちが犯した過ちは避けられないと思います。むしろ、そのような理解をしてしまう方が普通なのだろうと思います。だから、勢観房・念仏房たちというのは、実は私たちの姿を表わしているわけです。そこに潜む問題性に気づいていくことは至難の業です。これでいいのだと思った瞬間に、そのとにしがみついていって、そこから出ようとしないということが起こってくる。それが、わかったということがもたらす大きな問題です。そういうものが、私たちにとって、非常に大事なことを言い当てようとしてくださっているのではないかなという気がしております。

今回のご縁はここまでとしたいと思います。ありがとうございました。

2004(平成16)年9月16日 高倉会館日曜講演抄録「ともしび」第626号
「ただ信心を要とす・としる・べし」
講師 藤場俊基(ふじば としき)金沢教区常讃寺僧侶

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