2004(平成16)年9月16日 高倉会館日曜講演抄録「ともしび」第626号
講師 藤場俊基(ふじば としき)金沢教区常讃寺僧侶

「ともしび」626表紙おはようございます。お気づきかと思いますが、今日の題には、「ただ信心を要とす・としる・べし」と、あいだに点を入れてあります。これを思いついたきっかけは、7月のある日に、近くのお寺でお説教を頼まれまして、「ただ信心を要とす」という題をいただいた時のことです。いろいろと考えたのですが、どうも自分の中で話の筋が展開していきませんでした。あまりにも当たり前すぎて、これでもう答えになってしまっていて、これ以上なにも足すことも引くこともできなかったのです。これを言えば、あと何も言うことがない。そこから何も課題がでてこないという感じがいたしました。

これは歎異抄の第1条に出てくる言葉ですが「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし(聖典626頁)」とあります。これを「要とす」で切ると、それは一つの結論を述べる言葉になってしまいます。「要とすとしる」までになると、今度はこの結論に対して、私は「知るべきことを知った」と、結論と私との結びつきができてくる。これでも、知ってしまったということになれば、もうそれで何も必要なくなっていくわけで、ここからもあまり課題が出てきません。ところが最後に「べし」とついたときに、今度はこの言葉が私のところから離れて、自分がそれを「しるべし」と呼びかけられる立場になる。そのときに、それが教えの言葉、教言になっていくのです。

「信心を要とすとしるべし」と言われたときにはじめて、何をどのようにしるべしと言われているのかということを、自らが問われる言葉になっていくわけです。

しるべしと言われても「信心」という言葉の中身がはっきりしないまま、この言葉だけが独立したものとして語られるならば、中身を問う必要があまりなくなっていきます。そして私たちは、中身はわかったものとして。それをごく当たり前のように話している。たとえそうであったとしても、「ただ信心を要とす」ということ自体については、それを間違いだと言えないのです。間違ってはいないのですけれども、「私はそれを知った」ということで終わってしまう。この「知る・わかる」ということが、私たちにとってどういうことなのかということが、非常に重要な問題なのではないかなということがあるわけです。仏法がわかるとかわからないとか、信心とはどういうことなのか知りたいという質問に出会うことがあるのですが、この知るとか、わかるということは、いったいどういうことなのでしょうか。

「信心」は、言うまでもなく、浄土真宗においては、非常に大事な言葉です。蓮如上人の『御文』でも繰り返し使われます。中でも、私たちが耳にする機会が多いのは、第五帖目の11通、いわゆる「御正忌の御文」です。そこには「くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり(聖典838頁)とあります。ただ口に称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生するだろうと思うことは、なんとも頼りない話だということです。信心がなければ、ただ「南無阿弥陀仏」と口にしていても、そのことが頼りないことだ、と。こういう蓮如上人のお言葉を通して、信心こそが大事なのだという思いが私たちのなかに染みついています。

今、この言葉にであうのはどういう機会かといいますと、私は、学習会や座談会などで、若い人に「信心の有無にあまりこだわらなくてもいいから、とにかくお念仏をしなさい。本気になれなかったら、練習のつもりでもいいからしなさい」ということを申し上げるのですが、そうすると、ときどき「そんなふざけて気持ちでお念仏するのは嫌だ」と言って反論する人がいます。そういうときに、必ずといっていいほど引き合いに出されるのが、この『御文』です。「信心がないままお念仏しても、むだだと蓮如さんがおっしゃっている。だから私は、信心がはっきりするまではお念仏はしたくはない」と。

最初、私は、その反論にどのように向き合っていいのかわからず戸惑いましたが、何度か同じ経験をしますと、しだいに問題の整理がついていきました。そこで思い当たりましたのは、蓮如上人がこのような言葉を向けていた相手はどういう人だったのだろうかということです。蓮如上人の前には「信心がはっきりするまでお念仏はしたくない」と言いはっている青年がいたのだろうか。そういう青年に「そうだその通りだ。信心がなかったらお念仏をしてもむだだから、信心がはっきりするまで待ちなさい。それまでは念仏をせずに、信心をはっきりさせることに全力を傾けなさい」と、こういうことを蓮如上人はおっしゃりたかったのだろうか。

私にはそうは思えません。蓮如上人が、この言葉をむけた方は、きっと一所懸命お念仏をしていた方でしょう。口を開けば「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と。それはある意味で、自分がお念仏をしているということを自慢の種にしているような方々だったのではないか。たとえば、「今日は朝から何回お念仏をした」とか、あるいはそれを聞いて「あなたは1万回か。私はもう1万2千回お念仏申した」というようなことを言い合っているような人々が思い浮かぶのです。自分が励んだ回数を自慢し合うようなかたちで、自己肯定するような意識を持っていた人に向かって「何を勘違いしているのだ。ただ口先で称えていればいいというものではないんだよ。大事なことを何か忘れてはいないか」と、そういう意味で使われたときに、この言葉はもっとも意味があると思います。

ところが、蓮如上人の時代から500年経ったいま、同じ言葉を、「念仏したくない」という気持ちを正当化するために、「信心がなければ念仏してもむだなのだから私はしたくない」という意味に使うようになっている。

『御文』の中では、念仏するのに信心が伴う必要があるということが問題になっているようなのですけれども、問題にされているのは、自分がお念仏に励んでいることは正しいことなのだ、という意識のほうではないかと思うのです。ところが、そういうことと切り離されて、「信心がなければ、ただお念仏をしても意味がない」という意味の言葉として1人歩きしている。ですから、まったく違う意味の使われ方をするようなことが起こってきてしまうわけです。

教えを聞くことが大事であることは間違いないのですが、そこにも大きな問題が待ちかまえています。蓮如上人のお言葉で言えば、「えて(得手)に聞く」ということです。自分が気に入ったように聞きたいのです。私たちは、普通、正しいことを信じていると考えているような気がしていますが、実は逆なのではないか。自分が信じたことは間違っていないと思いたいだけなのではないか。真実だから信じるのではなくて、信じたことを真実だと思いたい。そしてそれに固執しているのが、私たちのありようなのではないか。