何のために生まれてきたのか? これほど深い問いがあるだろうか。
何のために生まれてきたのか?
これほど深い問いがあるだろうか。

今朝もテレビで、過疎の地にふみとどまろうとする若者の意欲が結集されて、会館をつくったことが紹介された。

一度都会へ出た若者が、古里へ帰って来たくなった心情には、生きる証(あかし)がほしかったのである。機会化された仕組みの中で、ベルトコンベヤーに乗せられた物体のような生き方では満足できず、私という一人の人間が、たしかに今日ここに生きているということの証がほしかったのである。人間は物だけで満たされることはできない存在であることを物語っている。

しかし、山の中に生きていれば、それで生き甲斐が感じられるかというとそうはいかない。それなら、山の若者はみんな満足して生きているはずである。都会に比べて公害がなく、新鮮な空気が吸えるからとか、生の野菜があるからとかが田舎に生きるよさにしかならない。もっと人間は本質的に生きるしるしを見つけなくては、心の底から笑えないものなのであろう。

経典を開くと

「たとい三千大千世界に大火の充満するあれども
かならず当(まさ)にこれを過ぎてこの法を聞け」

と教えられている。身命(しんみょう)を顧(かえり)みず、いのちがけで道を求めよとは、自己に忠実に人生を生きてきた方々がひとしく教えてくださったことである。関東から聖人をたずねて上ってきた門弟に対し

「おのおの十余箇国の境を越えて、身命を顧みずして尋ね来らしめたまふ御志、ひとへに往生極楽の道を問ひ聞かんがためなり」(歎異抄)

と求道者の心中を言い当てた親鸞の言葉もそのことをのべている。

有名校に進学することのできた若者が、3年たったある日、学校をやめる、と言い出した。驚いた母親や祖父は、せっかく入学できたのだから頑張れ、とすすめ、このまま行けば、将来は約束されているではないか、となぐさめたが、若者の心までは動かせなかった。母や祖父が言う将来は約束されているとは、卒業したら金は入るということである。それこそ物質万能という現代人の迷信から出た言葉である。この若者の言い分は、何のために勉強するのかわからなくなった、というのである。

人間は、何よりも先に解決しなければならない問題をもった存在でありながら、そのことに気づくことなく過ぎているということがあるのではあるまいか。一度は、どうしてもぶち当たる問題でありながら、あまりにも大きな問題であるからこそ、かえって素通りしてしまうということがあるようである。

私はそれを、いのちのねがい、と呼んできた。何のために生まれてきたのか?これほど深い問いがあるだろうか。そんなことを問うことが、ばかげたことというかもしれないが、この問いに応えてくれるものが見つからないなら、生きる証しは立たないであろう。

『今日のことば 1975年(6月)』 「いのちをかけて 道を求めよ」