2011(平成23)年10月2日 高倉会館日曜講演抄録「ともしび」第714号
講師 畠中光享(はたなか こうきょう)日本画家・大谷大学非常勤講師

「ともしび」714表紙1 絵描きをこころざす

おはようございます。久しぶりに高倉会館に来させていただきました。他所でのお話は苦になりませんが、高倉会館でのお話は緊張してしまいます。一週間ほど前からとても気が重くなっていました。今日は普段思っていることをお話ししようとおもってまいりました。よろしくお願いします。
僕は大谷派の寺の長男に生まれました。どうして絵を描くようになったかをお話いたします。私は6歳で母と死別し、父の再婚によりさまざまな出来事があり、志望の美術大学への進学を見送り、1年浪人をしていました。

そうして浪人していたとき、父が「わしはおまえが総理大臣になるより、ただの坊主になってくれる方が尊いと思う」というようなことを言って大谷大学への進学をすすめました。その一言がきっかけで僕は大谷大学に行ったのですが、それは結果としてとてもよかったのです。いろいろな人がいました。経済的に恵まれたお寺の息子の学生もいましたが、うちのような貧しい寺で学資も壇信徒の方から出してもらって、それで勉学している学生もいました。でも、心はみんな豊かで、私の友人たちは分けへだてなく、お互いが自然に助けあうようなすてきな学生生活を過ごしました。それがよかったのです。僕は卒業してからも絵を描く部屋がないからと、学長黙認でしばらくは大谷大学の教室を使わせてもらいました。その頃は松原祐善先生が学長でした。

大谷大学に進学して美術大学には行かなかったけれども、大学の勉強もしよう、絵を描くこともしっかりやろうというようなことで、朝の8時半から夜の10時までずっと大学にいました。西賀茂の尼寺に下宿していたのですが、当時は上賀茂から西はバスがなかったころで、それで自転車で通っていました。お風呂も帰るころにはお湯が抜かれていましたから、夏などは大学で浴衣に着替えて銭湯に行って、それからまた授業を受けてという感じでした。

卒業してからはフリーターのようなもので、電柱の立て替えとか、ジーゼルエンジンのさび落としとか、時給のいい仕事をしながら絵を描いていました。下鴨に京都大学の上野照夫先生というインド美術の先生がおられて、週に1回ぐらいはお会いしていました。のちにインドに行きたいと思うようになったのは上野先生のご縁もありました。