1994真宗の生活

1994(平成6)年 真宗の生活 5月
<水子供養の痛み>

A いま日本中で堕胎させられた水子の命は、届けられただけで年間二百万にのぼると聞いたことがある。おそろしいね。誰かれでなくて日本人として慚愧に堪えないことだね。

B だから水子供養が盛んなわけだ。でもそのほとんどは、いま自分が遭遇している病気などの逆境は、過去に堕ろした水子の霊が作用しているからだと言われて供養を頼む。よほどの事情があったにせよ、親の都合でわが子の命を流した痛みをいつのまにか忘れてしまい、今度もまた自分の都合で供養ということを利用して自分の災難を逃れようとする。そういう二重の罪を犯しているわけだ。そこに気づけないで追善供養だけが横行している。

A でもこういう人もある。この間あるご婦人から水子供養を頼まれたんだ。事情を聞いてみると、その人の長男の結婚に周囲は大反対なのに子供ができた。この結婚は無理だとその人も長男に、「その児を堕ろせ」と勧めたが、息子は頑として聞かないで、子供は生まれた。それ以来、不通のままであった長男が先日、もう五歳になったその児を連れて訪ねてきた。その人は孫の笑顔をみてハッとした。”もし息子が私たちの勧めに応じていたらこの児は生まれなかったのだ”と。そしで自分も実は三十年も前に子供を堕ろしたことを憶い出した。”一体わたしはなんという人間だったか”。この痛みに襲われて、居ても立ってもいられなくなった。それでお寺へとんできたんですというんだ。

孫の笑顔からその人は自分の罪の痛みを頂いた。ぼくは、黙ってその人の痛みにただお念仏申すほかなかった。そして一緒に「正信偈」を唱和した。

『真宗の生活 1994年 5月』 「水子供養の痛み」「『同朋』から」