10 不回向—蓮如上人のお示し

そんなことを思いますとき、「回向」ということを領解する道を開いて下さったのは、蓮如上人だろうと思います。蓮如上人は『御一代記聞書』の中に、「真実信心の称名は、弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる」という親鸞聖人の御和讃に対して「弥陀のかたより、たのむこころも、とうとやありがたやと念仏もうすこころも、みなあたえたまうゆえに、とやせんかくやせんと、はかろうて念仏もうすは、自力なれば、きらうなり」(真宗聖典862頁)というご解釈をお示しくださいました。阿弥陀様の方より、私たちがたのむ信心、その「たのむ」という心も、「とうとやありがたや」と謝念をもっていただくその私たちの心も、実はみなお与えとしていただいたものである。だから、ああではないか、こうではないかといって、計らい分別をすることをもって念仏を申すというならば、それは自力であるから、わざわざ「きらうなり」という言葉を親鸞聖人はお使いになったのだ、と。こうなりますと「不回向」ということがかなりはっきりしてまいりますですね。

さらにその「回向」という言葉について、蓮如上人は「『回向というは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいうなり』と、おおせられそうろうなり」(真宗聖典862頁)というのです。「回向」ということは、阿弥陀如来が衆生をお助けになるということなのです。そのことの他に「回向」ということはないのだというのです。阿弥陀様と衆生とがいて、どうするこうするという話じゃなしに、阿弥陀様が衆生を助けるということなのだと。言葉は非常に平易ですけれども、その言葉の裏に蓮如上人はきっとお確かめになったと思います。もし助けない阿弥陀様がおいでになったとするならば、その阿弥陀様は偽物だと。蓮如上人はおっしゃいませんけれど、推し量って申しますと、そのことをきっちり胸のなかで押さえられて、「回向」とは、何かをもらうことでもなければ、何かお前にやるぞという話でもない。衆生を助けるということなのだと。従って、その助けるということのうちに、実は「回向」という言葉ひとつに託して、阿弥陀仏と名づけたてまつる摂取不捨のおはたらき、お救いが示され、その真っ只中に私が生きている。生きている私の上にたまわった事柄が行信なのです。念仏・信心なのです。その信心を私化することなく、いただく、ほんとうに帰命する。これが浄土真宗のお救いの道理というものだと、蓮如上人もおっしゃっておいでになります。

11 おわりに—浄土真宗の徒として責任

そんなことを思いますとき、現今の「宗教混迷」という言葉がどれほど宗教ということに無知蒙昧なまま使われているか、親鸞聖人が「行信」や「回向」という言葉を通して明らかにしてくださったおみのりに、もう一度きちっと耳を傾け直しながら、私たちは、今日の宗教状況と言っていることに、浄土真宗の徒として責任を持たなくてはならないと思います。

ただ「乱れておる」とか、「駄目になっとる」と言っておれないのが、浄土真宗の教えに生きている人間だと思います。いろいろなことをしなくてはならない。しかし、いろいろのことを為すに先立ってまず明らかにしなくてはならないのが、親鸞聖人が明らかにお示しくださった「回向」ということを通して、真実の宗教、真実の行信とはいったいどのようなことなのかを確かめる、ということです。その上で、現代の宗教状況というものに、きっちりとした言葉で、それを批判するなら批判する、それの中にある人間の深い悲しみを見るならば、その悲しみを共有する。そういうかたちで関わりをもっていくべきではなかろうかと、私は思っておるわけであります。

 

1999(平成11)年11月28日 高倉会館講演抄録「ともしび」第572号
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