人間は絶望する。しかし、いのちは絶望しない
人間は絶望する。しかし、いのちは絶望しない

病の身となって13年たったという1人の婦人をたずねた。中風の身であるから足をとられた状態で床についておられた。しかし、その顔はかがやいている。長い病床生活が彼女を決しておかしたことになっていない。

この人は元気なころ、広い田畑を1人で耕作しておられ、その間をぬうように聞法の座に出たものだった。法話の途中で眠たくなると、後ろの障子のところに立って聞くような人であった。タオルを洗って、それで眼をふいては大きな瞳をうるませて聞いておられたことが思い出されてくる。

「私は、仏法を聞けば苦しみがなくなるのだと思うて最初のころお聞かせにあずかっておりました。しかし、聞いていくうちに、そうではなかった。どんな苦しみからも逃げずに受けていくことだった。安心して苦しませてもらうことがわかりましたよ」といかにもうれしそうに話してくださった。さらに、
「ご法座のある日は障子をあけて向こうの道を通っておまいりになる人をおがみます。どうぞまいって聞いてください。その道だけがこの世でのこるただ一つの道です、と心で言いたくなります。人さまがまいってくださることが、そのまま私のよろこびです」とつけくわえて話された。

私はこの人の話を聞きながら、人間は深いところで一ついのちに結ばれているのだということを教えられた。自分は病床にありながら他人(ひと)のよろこびを自己のよろこびとするということは何と不思議な世界だろう。

人間は絶望する。しかし、いのちは絶望しない。庭先に咲き残りのコスモスがあるが、この人はこの花とも語り合うような純粋さをたもっておられるように思えた。

いのちの事実は私の思いよりももっと深い。それは、山にも、河にも、大地にもつながっているものではあるまいか。私の思いはあまりにも狭く、何ものとも融(と)けあおうともしないところで生きてはいるが、一度限りないいのちの事実にめざめてみると私の人生は一変するだろう。自他を貫くものが無量寿(むりょうじゅ)と言われるものであろう。

曇鸞(どんらん)というお方は、衆生をあらわすのに、仏も、菩薩も、凡夫をも貫くものとして衆生を示してくださったが、衆生とは不生不滅(ふしょうふめつ)の意味だと教えておられる。私どものいのちの背後に限りないいのちのつながりのあることが言いあてられている。思えば、凡夫といわれるのは、こうした無限のいのちにささえられている衆生の事実を忘れはて、おれが、わしがの思いの中にたてこもって生きるものの名であった。

「おばさん、有難う、大事にしてね」と言ったら、「先生もお大切にしてください。あなたがお変りないと他人(ひと)から聞きますと、それを聞いて安心します」とあつい言葉がかえってきた。

『真宗の生活/今日のことば 1975年(12月)』 「喜びのこのいのち ともはらからに」