2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 3月 【彼岸】

<スリッパの痛み>

「すべてのものが(かがや)いて見えるのです。ようやく仏法(ぶっぽう)()うことができて、心も体も感激しています」。こう言ったところ、先生はそこにあったスリッパで、彼の頭をパ
ーンとたたきました。

先輩に聞いたお話です。新宗教・新新宗教ではこのような体験を非常に大事なものとして、「救い」や「さとり」のしるしとすることが多いようです。ある教祖は「進歩をはかるのに超能力を目安(めやす)とする」と言っています。何かにであって心身ともに感激し、人によっては不思議(ふしぎ)な体験をすることはあるかもしれません。それだけ大きな出来事なのでしょう。しかしそれは「救い」や「さとり」と本質的にはまったく関係がありません。さらに大事なのは、その「であい」はようやくスタート地点に立てたことを意味するのであって、ゴールではないということです。「であい」や、そこに付随(ふずい)する体験によって自分自身が完成したと思うことは許されません。なぜなら、その体験の意味を絶対的なものとし、それを自分の物差(ものさ)しとしたうえで、すべてを(はか)ってしまうという(あや)りを起こすからです。自分が「神」になってしまうのです。

彼岸(ひがん)」(お浄土・仏の世界)という言葉には絶望的な遠さが感じられます。けれども本当に「到達(とうたつ)できない、自分の想いの延長(えんちょう)にはない」とはっきり知らされたときには、不思識にもそのはたらきが身に満ちています。その中身は仏道を歩み始めることができるということです。つまり「(わたくし)するな、凡夫(ぼんぶ)と成って歩め」というのが「彼岸」という言葉の持っている意味です。仏法は道として与えられるのです。

後日、その人が「今はすべて普通に見えます」と言うと、「よかったなあ」と言って先生は微笑(ほほえ)んでいたそうです。

『真宗の生活 2001年 3月』【彼岸】「スリッパの痛み」