自分の存在の重さに押し潰されそうになり、ある夜フラフラと信國(のぶ くに)淳(あつし)先生のお宅を訪ねていました。お部屋へ通されて、ずい分長い時間が経ったように思いました。何から切り出したらよいのかわからず、うなだれて坐(すわ)っている私に、ようやく先生が「どうしましたか」と、問うてくださった。その途端に私の口をついて「私は、生きたいんです」と叫んでいました。すると即座にテーブルを叩いて「そのたいが生きさせない!」と、大声で返事が返ってきました。私はハッと我に帰り、姿勢を正して先生の言葉に全身を集中してゆきました。

「あなたは自分が病人であることがわかりますか? その病人であるあなたが自分を俎(まな)板(いた)に乗せて、こんな者は生きる資格がない、価値がない、と痛めつけて殺しにかかっている。あなたは本当に冷淡な人だなぁ。あなたのあり方は、高(たか)嶺(ね)に造花(ぞう か)を咲かそうとするあり方だ。それはどんなに美しく見えても、造花ですよ。自然の花は、大地にしっかりと根を下ろしてこそ花開いている。無条件に生きる、ただ生かされているままに生きる。意味や価値をはからう自分が、いつも邪魔をしている。お念仏申すところから、自然な生活が開かれてきますよ」と仰(おっしゃ)って、先生ご自身がお念仏に出遇われた頃に詠(よ)んだ歌を紹介して下さいました。

 

南(な)無(む)仏(ぶつ)の 御(み)名(な)なかりせば 現(うつ)そ身の ただ生き生くる ことあるべしや

 

そして傍(かたわ)らにある『聖典』(明治書院版)を開いて示して下さった所には

 

淤(お)泥(でい)華(け)とは、経に説きて言(のたま)ふ、

高原の陸(ろく)地(じ)には蓮(れん)を生ぜず、

卑(ひ)湿(しつ)の淤泥(お でい)に蓮(れん)華(げ)を生ず。

此(これ)は凡夫、煩悩の泥中(でい ちゅう)に在(あ)りて、

仏(ぶつ)正(しょう)覚(がく)華(け)を生ずるに喩(たと)ふ。

 

と記されていました。

「あなたは泥(どろ)凡夫であることを恐れているんだね」

「さあ、あなたは邪(じゃ)見(けん)憍(きょう)慢(まん)の鬼になりますか、泥の中に咲く花になりますか。決意するんですね」

先生のこうしたお言葉を聞いているうちに、「私よりも私を知っている者がいる、私よりも私を愛している者がいる」と思われ、長い間握りしめて放さなかった自分自身を、本来なるものに返したいと思いました。

「縁の下のジメジメした土に芽を出した草でも、日の光の方へと身を乗り出して伸びてゆくでしょう。そのようにあなたも、光を慕(した)ってゆきなさい」と仰(おっしゃ)る先生の言葉に、ずっと俯(うつむ)いて歩いていた私の身体(からだ)が、木の梢(こずえ)のその上のほうを仰ぎ見るようになったのですから、不思議なことでした。

こうして私は、久(く)遠(おん)劫(ごう)来(らい)初めて合掌するいのち、念仏申すいのちを生きている自身に出遇い、「ナンマンダブツ」と声に出して御名(み な)に親しみ、この御名に手を引かれて、浄土への旅の始まりに立つことになったのでした。

心に響く法話シリーズ④CD『念仏の光の中に』(東本願寺出版部)より