2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 11月 【報恩講】

<ほんこはん>

報恩講(ほうおんこう)」というと、五十数年前の子どものころのことを思いだします。北陸富山では報恩講のことを、「ほんこはん(ほんこさん)」と呼んでいました。「ほんこはん」は晩秋(ばんしゅう)木枯(こが)らしの吹く季節にやってきます。雪の降る冬籠(ふゆご)もりのための準備に取りかかっている時期です。秋の田の()り入れのあと、大豆(だいず)小豆(あずき)、大根・里いも、胡麻(ごま)・ごぼう・人参(にんじん)などの畑ものも始末して、外回りの仕事はほぼ終わっています。報恩講は精進(しょうじん)料理ですが、その年に収穫(しゅうかく)した新鮮な材料で、にしめやいとこ()やのっぺなど、ニ、三日前から祖母や母たちが(うで)をふるいます。おまいりのあとのお(ぜん)。小さい子どもたちまで一人前に赤御膳(あかごぜん)を並べてもらって、末席に座る。みかんが付いているのがうれしい。門徒の家庭の年中行事も、この報恩講で終わります。

さて、報恩講の「報恩」の心は「恩徳讃(おんどくさん)」に表現されています。「如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳は身を()にしても(ほう)ずべし 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も ほねをくだきても(しゃ)すべし」と。この恩徳讃をいつから聞いていたのだろうか。おそらく母のおなかのなかにいたころからでしょうか。そこで、「報恩」という言葉を聞くと、心がうれしく、背中の上部のあたりに緊張が走り熱くなってきます。なんの恩にも(むく)いていない自分を思うと慚愧(ざんき)(たえ)えません。申しわけなさ、すまなさの気持ちでいっぱいになるのです。

ところで、むかし富山の老人たちが出会うと、あいさつに「ご恩、よろこばれるけぇ」「なあん、よろこばれんちゃ」と言っていたのがいまに耳の底に残っています。現代的に言えば、生きていることの全体を感謝しているかという意味です。つまり自己自身を受け入れているかという意味です。愚痴(ぐち)や不平不満で日暮らししている自分のあさましさを懺悔(ざんげ)し、だからこそ、いっそうの聴聞(ちょうもん)(はげ)まなければならないという信心の再確認でもあります。『歎異抄(たんにしょう)』に、「まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」(後序)という唯円大徳(ゆいえんだいとく)の懺悔の言葉があります。この懺悔心こそ「報恩」の源泉でありましょう。また、そういう懺悔心をくぐって、「ご恩な、もったいない」と言って静かに念仏を(とな)えている、いかにも謙虚(けんきょ)柔和(にゅうわ)なお年寄りもいました。いずれにしろ「よろこびの日暮らし」、すなわち「報恩感謝の日暮らし」ということが自己の信心の確かめでありました。これが当時の富山の門徒の真宗文化でした。

したがって、真宗門徒の精神生活は「報恩」ということが中心です。しかし、その恩は人間関係のなかで、何かをしてもらったから感じるという恩ではありません。仏法(ぶっぽう)出遭(であ)い、そのことによって自分に出遇わせていただいたというご恩です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)へのご恩といっても、そういうご恩です。だからこそ尊いのです。たいていは、自分に出遇うも出遇わないもない、自分は自分そのものだからいちばん知っていると思っていますが、ほんとうは自分を知らない。自分に出遇う法に出遇わせていただかないと、自分を知ることができないからです。

ともかく、「弥陀(みだ)智慧(ちえ)をたまわりて」(『歎異抄』第十六条)、自分を忘れ、外にばかり批判の目を向ける心で生きている自分に出遇い、その自分を懺悔する懺悔心を通らずして「報恩謝徳の心」も「ご恩報謝の念仏」もない。南無阿弥陀仏は「ご恩」を感じたものの「報恩謝徳」の言葉です。「恩徳讃」はそのこころの端的(たんてき)な表現でありましょう。

『真宗の生活 2001年 11月』【報恩講】「ほんこはん」