しこうして同(おなじき)第八日午時(うまのとき)、頭(ず)北(ほく)面(めん)西(さい)右(う)脇(きょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息(いき)たえましましおわりぬ。時に、頽(たい)齢(れい)九旬に満ちたまう。

(『真宗聖典』七三六頁)

『御伝鈔(ごでんしょう)』では、親鸞聖人が命終(みょうじゅう)されたのは「午時」になっています。「午時」は正午を指します。

一方、西本願寺本の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』奥書やその他の書物では午後二時ごろとなっています。いずれにしても、お昼過ぎであったということです。

親鸞聖人は「頭北面西右脇に臥し給いて」という姿で命終されました。実はこれはお釈(しゃ)迦(か)さまの臨終の姿です。釈(しゃく)尊(そん)は頭を北に顔を西に向け、右脇腹を下にして臨終を迎え、完全なさとりの境地である涅(ね)槃(はん)に入られました。また師の法然上人もそのようにして臨終を迎えられました。

親鸞聖人はみずからの命終に際して、釈尊の臨終の姿、またそれに則(のっと)った師の法然上人の臨終の姿が胸にあったのであろうと思います。そこには、形を真(ま)似(ね)るということ以上に、聖人の生涯をかけた内面性の総括を読み取ることができるように思います。

親鸞聖人は流罪(るざい)になった時に、みずからの身を「非(ひ)僧(そう)非(ひ)俗(ぞく)」と言い切っておられます。その親鸞聖人が、臨終に際して師の法然上人にならい、釈尊の入涅槃の姿をとったということは、身は妻をもち子をもうける在(ざい)家(け)の生活のままに、聖人の内面の精神においては終生仏弟子の自覚を堅持(けんじ)していたことを示しています。

末(まっ)法(ぽう)五(ご)濁(じょく)の世にあって、しかもなお仏弟子として生きる決意を親鸞聖人は、「愚(ぐ)禿(とく)釈親鸞」というみずからの名のりにあらわしておられます。この「末世(まっせ)の仏弟子親鸞」という自覚が親鸞聖人の教えと生涯を学ぶ時の基本的な視座になると思うのです。

「親鸞聖人とはどのような方であったのか」ということを見事に表現したのが、『御伝鈔』の「ついに念仏の息たえましましおわりぬ」という言葉であろうと思います。親鸞聖人は仏弟子として、念仏の中でその九十年の生涯を完結されたのです。

『同朋』2011年2月号「親鸞聖人の生涯に学ぶ」(東本願寺出版部)より