先年、北海道である青年に仏教をわかりやすくと要求されて、「何よりもわかりやすいことは、自分も死ぬ人間の一人である」と書いたことがある。書いた時はこれほどわかりやすいことはないと思った。青年もこれならわかると思うたのでしょう。

しかし後で考えて見ると、これが一番わからないのであった。人は死ぬということはよくわかるのであるけれども、自分もその一人だということが本当にわかっている人はないであろう。

ある学者の書いたものの中に、「今や人間は自己を除いてのほかは、何でも知っていることになった」というている。この自己を除いてのほかはというものには、人間もあるのでしょう。人間観とか人間の歴史とかいう題のついた書物はたくさん出ているから、人間のことはわかっているのである。したがって人間である自己はわかっているはずだが、その自己がわからない。

しかし、自己がわからないでどうして人がわかるのであろうか。教家(きょうけ)は人間というものがわかりさえすれば、教を弘(ひろ)めることができるのであると考えるが、これは大きな問題でないかと思う。

坊さんは、人は死ぬものだということを知っているが、自分も死ぬのであるということを身にこたえて知っていない。したがって、人が身辺のものを失ってもその人の身になって悲しみ慰(なぐさ)めることができぬのである。その点になると坊さんより医者の方が同情深いというた人がある。何か考えさせられるものがある。

そういうことを思うと、特殊性(とくしゅせい)というものに徹してこそ、本当に普遍(ふへん)性(せい)というものがわかるのである。人は死ぬものなり、ということは一般性であって、普遍性を知ったのではない。

「親(しん)鸞(らん)一(いち)人(にん)がためなりけり」(『歎異抄』)という特殊的自覚から開けてきたものが、一切衆生(いっさいしゅじょう)の救われるという普遍の道理である。一切衆生の救われる道理は誰が証明しなくても、親鸞が証明するのであるということになるのである。

聞思の人③『金子大榮集(上)』(東本願寺出版部)より