2002真宗の生活

2002(平成14)年 真宗の生活 3月 【南無(まむ)

(うら)みと(おび)えが()ける「(おど)き」の時>

「ありがとう」
この言葉を、私たちはいつから使ってきたのでしょうか。

幼いころには、「他人さまから何かしてもらったら、ちやんとお札を言いなさい」という親の教えに従って、素直に言ったことがあるかもしれません。また、人生の中で、窮地(きゅうち)(おちい)って助けてもらったときなどには、「ありがとう、あなたは私にとって恩人(おんじん)です」と、心の底から言ったことがあるかもしれません。この「ありがとう」という言葉を発することができた時、他人を(うやま)うことができ、生きる勇気が出るということは、誰もが(うなず)けるところでしょう。それゆえ、ある種の「宗教」においては「常に感謝の心を持たなければなりません」と主張もされるのでしょう。
でも、職場や学校や家庭で、上司や教師や親や配偶者(はいぐうしゃ)による評価(ひょうか)のまなざしによって切り(きざ)まれ、これ以上傷つかないように心を(あつ)(から)(おお)っているか、ハリネズミのようにトゲが生えてしまっている現代人の(かたくな)な心には、以前は素直(すなお)に感謝できたかもしれない窮地における手助けさえも、なぜか(うと)ましく思えてしまうのではないでしょうか。

「この場は切り抜けることができても、この先ずっと(おび)え、(かま)え続けなければならないような人生は、もうたくさんだ」というのが、私たちの奥深くにある気分なのではないでしょうか。
そこには、まわりの世界が私を傷つけ、追いつめてきているという想いがあります。そして、ナイープ(純心(じゅんしん))で傷つきやすいこの私を、誰か受けとめてほしいという悲鳴(ひめい)があります。しかし、その「私」の本質は、「傷つきやすいこの私を、皆いたわれ」ということ、もっとはっきり言えば「この私の前に、皆ひれ()せ」という「プライド(自尊心(じそんしん))」以外の何ものでもありません。

この「私」とは、現代人特有のものでは決してありません。七高僧(しちこうそう)のおひとりである曇鸞大師(どんらんだいし)は「自分を供養(くよう)恭敬(くぎょう)する心」ということを言われます。その心こそが「私」であり、どんなに立派なことを言おうが、実は自分の気分が良くなることしか求めていない。その「私」が、世界と自分が存在することに(うら)みを(いだ)き、閉じた世界を作り上げ、怯えているということです。その「私」に気づく(おど)き。その驚きの時、無条件に世界全体に頭が下がり、怨みと怯えは解け、「私」を(やぶ)破って「ありがとう」という言葉が、初めて噴出(ふんしゅつ)するのです。

『真宗の生活 2002年 3月』【南無】「怨みと怯えが解ける「驚き」の時」