2003真宗の生活

2003(平成15)年 真宗の生活 3月 【彼岸】

この世(・・・)かの世(・・・)とをともに捨てる>

現代は、まさに「この世」にしか価値を見出せない世の中です。平均寿命(じゅみょう)が伸びたこともあって、人間はだれでも八十年近く生きられるという幻想(げんそう)を与えられています。かつて検事総長を勤めた方が「ひとは死ねばゴミになる」といって亡くなってゆかれました。この発言は、まさに「この世」にしか価値はない、いわゆる「あの世などはないのだ」という悲鳴として聞こえてきました。果たして人間は、「この世」だけにしがみついて安らかに生き、そして死んでゆけるのだろうかと思います。「この世」とか、「あの世」といわれているところにはどういう思いがあるのでしようか。

先日、ある新宗教の信者の方から冊子が送られてきました。その冊子には、若くして妻を癌で亡くされた夫の手記が()っていました。生前その信仰に入り、死後に「あの世」のあることを受け入れたため、妻は(やす)らかに死を迎えてゆきましたと書かれていました。

日頃の意識では「この世」中心であっても、やはり、いざ自分が死に直面したとき、どうしても「あの世」が要求されてくるのでしょう。

ところが、お釈迦(しゃか)さまは「世間における一切のものは虚妄(こもう)であると知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも(へび)(ふる)い皮を脱皮(だっぴ)して捨てるようなものである」とおっしゃっています(岩波文曄『プッダのことば』中村元訳より)。
ここに「この世とかの世とをともに捨てる」という言葉があります。「この世」も「かの世」も、ともに人間の考え-観念(かんねん)-なのだという批判がお釈迦さまにはあるのでしょう。人間の観念の内側に「この世とかの世」を閉じ込めているに過ぎないではないかという批判です。それは本当の「かの世」ではありません。

親鸞聖人も「往相(おうそう)の一心を発起(ほっき)するがゆえに、(しょう)として(まさ)に受くべき生なし」(『教行信証』・聖典244頁)とおっしゃっています。つまり信心を得たならば、もう二度と迷いのいのちに生まれ変わらないということです。人間が思い描くような「あの世」に生まれ変わる必要がない。

「あの世とこの世」という観念をともに超越(ちょうえつ)するところに本当の「彼岸(ひがん)」があるのです。人間の思いの世界である「此岸(しがん)(こちらのきし)」しか見えない私たち凡夫に対する、本当に厳しい如来(にょらい)の信仰批判が「彼岸」の「彼」という言葉に込められていると思います。

『真宗の生活 2003年 3月』【彼岸】「この世とかの世とをともに捨てる」