MDRI015 「私は本名を名告る、本名を名告って[らい]の現実を訴える」

この言葉は、ハンセン病隔離政策によって、人生の大半を療養所で隔離生活することを余儀なくされた、大谷派僧侶・伊奈教勝さんの言葉です。療養所では、本名を名のることも奪われました。

名を奪うことで、その人の歴史や社会とのつながりそのものを奪ってしまったのです。

「差別」、「同化」、「隔離」など様々な形であらわれる人権への侵害。これらはいったい人間の何を奪おうとするものなのでしょうか。もちろんそれを一口で言い表すことは不可能です。しかし、それらと闘う人たちの姿に向き合う中でひとつ見えてくるもの、それはその闘いの根底に、自分自身を取り戻す闘い、というものがあるということです。「差別」「同化」「隔離」などが、様々な厳しい「人生被害」をもたらす中で、その人がその人として生きるということを奪い取ってしまったのです。

冒頭の伊奈教勝さんの言葉をはじめ、「水平社宣言」にある「呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた」という言葉、アイヌ民族の尊厳を回復する闘いの中で叫ばれた「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ」( 人間らしくある人間) という言葉、これらはみな、人間解放の闘いのなかで自らが「独尊者」として生きるということを獲得していったことの表現です。

そして同時に、それぞれが独尊者として生きることができる世界が、現に開かれていることを教えてくれるものです。それは、互いが独尊者であることを称え合う世界と言ってよいでしょう。

人間は互いに響きあって存在するということをあらわす「響存」という言葉があります。響きあうということは、一人では成り立ちません。共鳴する音叉 のように、互いと互いの存在が関係しあってはじめて響くということは起こります。その人の存在がその人の存在のままで互いを響かす世界、それを同朋社会と名付けるのではないでしょうか。蓮如上人五百回御遠忌法要のテーマは「バラバラでいっしょ 差異 をみとめる世界の発見 帰ろうもとのいのちへ」です。そこで確かめようとしたことも、独りにして尊いという人間の存在と、一人ひとりがそのままで生きることを成り立たしめる世界とはどのような世界であるのか、ということです。まさしく「同朋社会」というものを正面から課題にしようとしました。

そのテーマは、さらに、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を機縁として「いま、いのちがあなたを生きている」と表現されました。いまあらためて、独りにして尊いということを奪ってきた私たちの在り方と、そのなかで「独尊」ということをたゆみなく希求するところから表現された言葉を手がかりに、同朋会運動のこれからを展望してみたいと思います。

人権週間ギャラリー「同朋会運動のこれからに向けて」