教如上人の歴史を引き継ぐ伝統のお講「十日講」
教如上人の歴史を引き継ぐ伝統のお講「十日講」

十日講の由来

岐阜教区第10組と第11組にまたがる安八郡、大垣市、瑞穂市、岐阜市の一部の地域には、あの東の徳川軍と西の石田軍が争った関ヶ原の合戦の頃より続く門徒衆の集まりがあります。

その名を直参土手組十日講と言います。由来は、一六〇二年に創立した東本願寺の祖である教如上人のこの地でのエピソードをまとめた『教如上人遭難顚末』(昭和四年刊/桑原博愛著)に残されています。「上人が森部村光顕寺に御避難の際三成の郎党が攻め寄せ御生命も危ふかりし折柄附近の僧俗雲霞の如く集まり各々農具等を打振り之を撃退し之を守護すると同時に表記の村々僧俗は協議を凝らし八十二人を各村に割当し各村に於ては信心堅固にして勇壮なるを選抜し身を蓑笠に固め京都御安着迄御守護申上ぐる事ご相定めたり而して御帰洛の途中三成の軍勢に攻撃せられ之に対抗して敵陣に倒れしもの十九名に及ぶも屈する所なく他方面の信者と共に其目的を達したりと言えり(中略)爾来土手組合に於ては月番を定め寺院に於いては毎月五日、同行に於いては毎月十日、仲満を以て順次法要を厳修し又区域の広汎にして集合に困難なるより上組十ヶ寺下組十ヶ寺となせり(以下略)」とあり、石田三成の軍勢によって身の危険にさらされた教如上人をこの地の門徒衆が護ったことが伝えられています。

絵2

絵1

彼らの命を懸けた行動への礼として教如上人は彼らを土手組という名を称し感謝の手紙(御墨附)とともに絵像を授与したのです。先人と上人の遺徳を顕彰する営みは四百年を経た現在も十日講という形で続いているのです。

教如上人書状
教如上人書状

 

現在の十日講

現在の十日講は、20カ寺が所在する地域15カ村の講員(門徒にこだわらない)で構成しています。上組の寺院と下組の寺院で月毎に会所を交互に回りながら、毎月十日に講を開きます。講は講員によって組織され、各寺院の講員から1名ずつ選出された評議員によって運営されています。その中でも講を代表する講頭・副講頭・会計ら役員は顧問(4名の寺院代表)とともに講を盛り立てなければなりません。また運営費は講金によって成り立っており、各地域の講員が一軒一軒回りながら集金しているのです。

十日講の規約は「二十カ寺院と講員は十日講の意義を認識し、進んで参詣する」と規定しています。少なくともこの地域の人や二十カ寺それぞれの門徒が二十カ寺に参詣する機会を得ていると言えるのです。

伺った二月十日は墨俣町の等覚寺(第11組)で十日講が勤まりました。この日は前日の晩からの雪の影響でいつもよりも参詣者も少なかったようですが、各地域から講員の皆さんが集まっていました。はじめに阿弥陀経が勤まり、その後正信偈(草四句目下)、念仏(淘三)、和讃(弥陀成仏のこのかたは)を唱和しました。お勤めが終わると十日講に伝わる消息(前門首と前々門首からのもの)を等覚寺の今井信雄住職が拝読します。「子孫たらん人々は その徳を慕い、その恩に報いんために、先ず真宗教化のおもむきをよくききひらき…」。その後前回の会所寺院の住職による法話がありました(上組と下組が交互に会所となるため上組で十日講が開かれる場合は上組での前回の会所寺院の住職が担当します)。

等覚寺の十日講の様子
等覚寺の十日講の様子

 

お勤めの最後に拝読されるご消息
お勤めの最後に拝読されるご消息

伝統を護る共同教化

光顕寺の河村義耿住職から教えていただいた上人と土手組のエピソードは次のようなものでした。

関東で家康に会った教如上人は京都に帰る時、美濃で石田三成の西軍の警戒が厳しく長良川墨俣の渡し場で足止めに遭います。やむなく一行は、南下して光顕寺にたどり着きますが、西軍石田方の数十人の手勢に包囲されました。身に危険がせまったことを知った教如は、本堂の須弥壇の下にかくれましたが、もはやこれまでと死を覚悟し、須弥壇の引き戸の板に、持っていた短刀の先この世の別れにと辞世の句を刻んだのです。

散らさじと森部の里に埋めばや

かげはむかしのままの江の月

(私は、今ここ、森部の里にわが身を埋めねばならず、無念です。長良川に映る月の影は、昔と何も変わらないが、人は死にたくなくとも、死なねばならず、はかないものです)

教如上人辞世の句(光顕寺蔵)
教如上人辞世の句(光顕寺蔵)

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という歴戦の武将にとって強い信仰によって団結された本願寺勢力は脅威だったことでしょう。一方、教如上人にとっても、諸大名との政治的駆け引きの中で本願寺を護り抜くことは並大抵のものではなかったでしょう。教如上人が護ろうとしたもの、そしてその上人を護ろうとしたこの地の人々の想いが十日講という集まりに受け継がれ、今も続いています。四月には報徳会という教如上人の遺徳を偲ぶ法要が勤まります。二十カ寺による二十年に一度持ち回りの法要が伝統されてきたのです。その際に御墨附が講員・門徒に披露されます。

土手組20カ寺
土手組20カ寺

このような伝統されてきた法要・法座も地域ならではの共同教化の形です。