(おご)る心を無くし、争いを止めれば平和になると誰もがわかっている。それを願っている。そして、人間であればこそ、驕る心をなくし、争いを止めることができると人間を信頼しつつ、それを裏切り続けているのも人間自身である。
この法語を見たとき、「七仏通戒偈」(しちぶつつうかいげ)を思い起こした。これは過去七仏が共通して受持(じゅじ)したといわれる釈尊(しゃくそん)(いまし)めの()である。

自分の心は自分の自由になるという心への信頼は心への我執に他ならない

諸悪莫作(しょあくまくさ)(もろもろの悪をなすことなく)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)(もろもろの善をなして)
自浄其意(じじょうごい)(自らその心を清くせよ)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)(これが諸仏たちの教えである)

この偈の前半の「悪をなさず善をなせ」という二句は、誰もがそうありたいと願っている人間への信頼である。人間に求められている道徳である。それなのにそれが実行できない現実がつきまとう。何故であろうか。そのために第三句の「自浄其意」が説かれるのであろう。これが仏教である。

「心を浄くせよ」ということが、単に、汚れた心を浄め純真な心になれということであるならば、それもまた、人間はそういう心を持とうと努めつつ、持ち得ないままに道徳の範囲に止まってしまい、仏教とはならない。

それでは「心を浄くせよ」ということはどういう意味であろうか。私たちは、心は私のものであり、自分の自由になると思いこんでいる。そのために、自分の心は努力次第で何とかなると自分自身を信頼している。ところが、自分の心への信頼を自分自身で裏切らざるを得ない現実に直面するのも事実である。そのとき私の心とは何かという問いが生まれる。これについて、親鸞聖人は、『歎異抄』(たんにしょう)(第13章)の中で、

なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人
ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人(いちにん)
てもかないぬべき業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。
わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじと
おもうとも、百人千人をころすこともあるべし
(真宗聖典』633頁)
と語られたが、ここには「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という心の在り方が(あき)らかにされている。業縁とは因縁のままにしか生きていないという身の事実への自覚である。因縁(いんねん)のままにという他力への目覚めである。

このことによって、「心を浄くせよ」とは、自分の心は自分の自由になるという心への信頼は心への我執に他ならないことを知れという意味と了解される。心への我執(がしゅう)空無化(くうむか)される、それが「自浄其意」である。従って、この法語も「自浄其意 是諸仏教」が加えられるとき、己の心を問う仏教の法語となるのであろう。

小川一乘
『今日のことば 2006年(3月)』
「驕りは 人間を滅ぼし 争いは 世界を滅ぼす」
作者:西原恵照
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。

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