報恩講。この場こそが、1回限りの、絶対に他に代えることのできない唯一の事実である

報恩講和讃ほうおんこうわさんの結讃に、「如来大悲にょらいだいひ恩徳おんどくは身をにしても報ずべし 師主ししゅ知識の恩徳おんどくも ほねをくだきても謝すべし」といわれている。

「大悲の恩」ということは、真宗の心の内実である。真宗の門徒として忘れてはならない言葉である。
「恩」について親鸞聖人は、現生(げんしょう)利益(りやく)のひとつとして、「知恩報徳(ちおんほうとく)」を挙げておられる。実はここにしっかりと見定めなければならない課題があると思う。

この世のあらゆるいのちは、運命のような条件の集まりを背景に、偶然のごとくに今現在のあり方を与えられている。ふとそれに気づくとき、私たちの心情には誰にぶつけてみようもない怨念(おんねん)というか、不条理というか、どうしてこうも不平等に自分が規定されてしまっているのか、というような感情がうごめく。これを「ルサンチマン(怨念)」などということもあるが、仏教ではこういう情念を「愚痴(ぐち)」と押さえているのだと思う。真実の存在の事実を知らないということだからである。

我らが自己のあり方に不服やら不満やらを抱くのは、ぶつかっている事態から引き起こされる感情であるが、それは状況を呼び起こす原因の
「相対的」(有限的)な事実に受け入れがたさを感ずるからである。

状況的存在であり条件的ないのちである我々は、その状況に自分の都合のよいものを要求して止まないのであるが、それがそうはいかない。だから、当然のように不平不満がおそってくる。それを愚痴という。
その状況に「絶対的」(無限的)な意味をいただく智慧が他力の信心なのである。有限な状況は、単に相対的なのではない。この場こそが、1回限りの、絶対に他に代えることのできない唯一の事実なのだ、無限なるものの限定なのだ。そう信受(しんじゅ)できるとき、自己はたとえ砕けようとも、粉末のように散ってしまおうとも、喜んで現在の状況を引き受けられる覚悟が与えられる。

この智慧が、「仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)」の情念を生み出してくるのである。この智慧をもろともに確認し直すものが、真宗のもっとも大きな行事としての報恩講なのであると思う。

本多 弘之(親鸞仏教センター所長・東京教区本龍寺))

『真宗の生活 2006年(11月)』
※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。

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