難思議往生

親鸞聖人の文章を拝読すると、いつも感銘を新たにするのですけれども、大変強靱な、粘り強い思索力に恵まれたお方だということを感じます。仏道の了解が、その思索の上に次々と展開していくのです。このように現生正定聚を語り続ける聖人は、同時に、もし「往生」ということを大切に考えるのであれば、浄土真宗の自覚道を「難思議往生」と呼ぶのであると、こうおっしゃるのです。
「往生」を先にお述べになるのではないのです。行信を獲得することによって、正定聚に住する者となり、涅槃無上道に立って生きるのだというのが、聖人が繰り返し語られる仏道の具体相なのです。しかしながら、往生という浄土教の伝統的な知見を大切するならば、住正定聚・立涅槃無上道を、「往生」と呼んでもいい。しかし、それは「難思議往生」という特定された往生であると、聖人は語られるのです。
聖人が晩年に、「二種の回向」をテーマにしてお書きになった論文があります。それはまた「往生」をテーマになさってもおりますが、『浄土三経往生文類』という題の論文であります。そこに、

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらいに住するがゆえに、他力ともうすなり。
しかれば、『無量寿経優婆提舎願生偈』に曰わく、「云何回向。不捨一切苦悩衆生、心常作願、回向為首得成就大悲心故」これは『大無量寿経』の宗致としたまえり。これを難思議往生ともうすなり。(聖典471頁)

と、如来の二種回向によって真実の信心を獲る人は、必ず正定聚の位に住す、と述べられるのですが、続いて「これを難思議往生ともうすなり」と言い添えられます。そこのところを、よく考えるべきであります。
私は穢土というほかはないこの世に生きることに耐えられない。どうか安らかな、本当の安らぎが恵まれる世界に私はありたい。こういう要求を人は起こします。この要求を「願往生」と言っていいでしょう。浄土に生まれたいという希望を持つこと、これは人間が最も真剣になった場合と理解することができますが、浄土を欣慕する、浄土に生まれたいという希望を持つことは、確かにとても意味深い希望です。穢土の厳しさに身を責められて、安らかな世界に生まれたいと願う。こういう、いのちの深いところから出てくる願いに、気が付かない人も多いわけでありますから。
しかし、聖人はそういうのは本当の往生とは了解なさらないのです。本当の往生は、「難思議往生」であるとおっしゃるのです。我々に現にあるのは、如来の恩徳によって、この人生のただ中で正定聚に住する、こういう喜びに満ちた確信を持つことである。その人は、迷いの人生を超えて、1つの自覚道に立つこととなる。これが浄土真宗であるのだが、しかしながら、そのような仏道、「涅槃無上道」を、今「難思議往生」と呼ぶのである。こうおっしゃるのです。
そうしますと、正定聚の身となって生きていく人生が、どうして「往生」と言えるのでしょうか。なぜ往生する人生と言えるのでしょうか。こういうことを私たちは、よく考えなければなりません。すると、そこに聖人の「浄土」の了解が、くっきりと浮かび上がってくるという感銘を、あらためて持つのです。

浄土の功徳を体験する

正定聚に住する人が生きていく自覚道が、なぜ往生と、それも「難思議往生」と言えるのか。それは浄土に生まれたいという希望を持つこととは違います。親鸞聖人は、正定聚に住するいのちを得た人は、実は浄土を体験しているのだという了解を、展開していかれたと思われるのです。
最初にその証拠を申しておきます。「証巻」で現生正定聚をお述べになった後、聖人は『浄土論註』の妙声功徳、主功徳、眷属功徳、大義門功徳、清浄功徳を語る教言を引文なさいます。これは曇鸞大師が、天親菩薩の教えられた29種の浄土の功徳から、五つを引用されたものですが、これが証拠です。涅槃道に立った人生とはどういう内容を持つのか。正定聚に住した人は、どういう生き方をするのか。これが曇鸞大師から聖人が学び取られた、大切な教えなのです。
先ほど尋ねました「正信偈」の「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」ですが、この「不断煩悩得涅槃」にご了解を賜りたいのです。これは曇鸞大師の言葉でありまして、阿弥陀如来の安楽浄土は、いったいどういう世界であろうか。それは、数多くの大切なはたらきが、現に今はたらいているような世界を言う。その第1は、われらがひとたび浄土に生まれることができたならば、煩悩を断ぜずして涅槃の証りを得る一道(いちどう)に立つことができるのである。やがてその人は、涅槃の証りを得ていく。安楽浄土とは、そういうはたらきをもった世界である。
さて、少し考えてみていただきたいのですが、西の遠い彼方に夕焼け空が美しく輝く。労働に疲れた身体でふと見ると、西の空が美しく輝いている。そこに何とも言えない感情が動きます。この世の厳しさに疲れた私、やがて、いのちが終わるときが来るのだけれども、そのときは、あの美しく輝く西の遠い彼方に、まざまざと感じられるお浄土に還るときをいただくのだ。何のためらいも、何の悲しみも無いではないか。こういうような、非常に素朴な浄土を慕う気持ちがありますでしょう。それはそれで、とても大切なのです。いのちが終わって還っていく、いわば、いのちの故郷でもある浄土、この了解です。
では、そういった浄土理解を超えて、『大経』が教える阿弥陀如来の安楽浄土とは、どういう世界であるのでしょうか。

凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。
(『浄土論註』〔「証巻」引用〕・聖典283頁)

われらがひとたび浄土のいのちを得ることができたならば、煩悩を断ぜずして、涅槃の証りに至る「分」、いわば仏道に立つことができ、やがて、如来の大涅槃の証りを得ることができるのだ。「浄土」とは、そういう功徳のはたらく世界を言う。こう曇鸞大師はお述べになっているのです。これが、浄土とはどういう世界であるかを1番端的に述べた表現です。
ところが親鸞聖人は、「よく一念喜愛のこころを発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得」とおっしゃるでしょう。信心を獲た人は、煩悩を断ぜざれども涅槃を得る道に立つのである。つまり現生に正定聚の身となるとおっしゃいます。これは、天親菩薩や曇鸞大師が浄土の功徳として教えてくださったものを、聖人は「信心」のところで生き生きと体験なさっていたからです。つまり、信心とは浄土の功徳を体験している心である。そういうことでしょう。

信心が体験する世界

親鸞聖人が、29種の浄土の功徳の中で、特に大切な功徳としてご了解になったのは浄土の「不虚作住持功徳」です。

観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
(『浄土論』聖典137頁)

大切な言葉ですから、聖人はこれを「和讃」になさいました。お葬式のときに必ず読む「和讃」ですから、皆さまご存じと思います。『高僧和讃』の天親讃です。

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし(聖典490頁)

本願力に遇うのはいつでしょうか。「念仏もうさんとおもいたつこころ」が起こったそのとき、本願に呼び覚まされという感動を持つのですから、今の人生において、聞法により念仏の身となることによって、我々は本願に遇うわけです。死んでから遇うというのではありません。
この、本願力に遇うた人を虚しく生死流転させないという如来の功徳が阿弥陀如来の恩徳の根本である「不虚作住持功徳」なのです。阿弥陀如来というのは、どういう功徳を讃えた如来であるか。本願力に遇うた人を、空過する人生を超えて、如来の涅槃のまことによって生きる者としてくださるのが、阿弥陀如来の恩徳である。それをうたわれた「和讃」なのです。
この「和讃」によってみても、よくわかります。阿弥陀如来は、どこにおられるか。本願力に遇うて、虚しく生きてきた人生を超えて、尊い人生を私はいただいた。こういう感動を持つことができたならば、その感動において、私は如来に遇うたのだ。これが聖人のご了解です。同時にその功徳が、浄土の根本なのです。
「浄土」と言っても、今申しあげたように、私は如来に遇うた。長い間求めて遇えなかった如来に、念仏申さんとおもいたつ心が起こったその感動の中で、私は確かに如来に遇うた。そのとき、その本願のはたらいている世界を「安楽浄土」と呼ぶのだ。こうおっしゃるわけです。
聖人のお考えは、安楽浄土という阿弥陀如来の浄土は、遠くにあって願い求めるものではなくて、信心を獲たときに生き生きと体験されるという、今申しあげたような感謝すべき世界を言っているのです。だから、信心は浄土を体験しているわけです。浄土を体験しているような人生を、往生浄土する人生と言って、何のためらいも無かろう。こういうことで、正定聚に住する、そういう生存の歩みを聖人は「難思議往生」、誓願の不可思議によって実現する往生とご了解になったに違いありません。

浄土の家族

難思議往生の一道に立った人は、どんな生き方をするのか。正定聚に住した人は、どういう生き方をするのか。これも親鸞聖人は曇鸞大師から学び取られました。先ほどの聖人が引かれた5つの功徳の1つ、浄土の「眷属(けんぞく)功徳」です。

同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり。
(『浄土論註』〔「証巻」引用〕聖典282頁)

如来の恩徳により正定聚に住した人は、浄土の家族に加えられたのである。この喜びです。だいたいおわかりいただけると思います。
念仏する人は「如来の家」(『華厳経』〔「信巻」引用〕聖典231頁)に生まれるとも申します。信心を獲た者は、浄土の家族に加えられる。この家とか、家族とか、一族とか、非常に具体的な形で、信心を獲た人の喜びを、龍樹菩薩や天親菩薩という偉大な大乗の思想家がお述べになっていることに、私は非常な啓発を頂くのです。念仏の身となった人は、孤独ではない。我々はどれほど孤独の厳しさに身を責められてきたことでしょうか。その孤独の中に泣いた我々が、ひとたび念仏の身となったそのときには、如来の家に生まれていき、浄土の家族に加えられて、温かないのちの交わりに、いわば招き入れられていくのである。このような恩恵を受けると、聖人はその了解を展開していくわけです。こういう大切な浄土の功徳を、「正定聚の数に入る」人は現に体験している。だからそれを「往生する人生」と言って何のためらいも無いではないか。
そして、浄土の家族に加えられたその喜びが、孤独に身を責められてきた我々にとって、どれほどありがたいものであるか、うれしいものであるかは、言うまでもなくよくわかるであろう。だから、お互い孤独に身を責められながら生きているこの世の中にあって、みんな「如来の家」の家族なのだ。こういう喜びを1人ひとりともにしたい、そういう願いが自然に動いてくるだろう。その願いを誠実に生きていくことが、「往生する人生」をいただいた、その「しるし」になるのではないか。こういうお考えです。
そういうことが全然無い往生は、浄土に生まれたいという希望を持っただけです。それでは充分な意味で仏道にならない。浄土の功徳を、私の人生の中で、貧しくとも身をもって証明していきたい。そういう願いが私を促してくる。その願いに誠実でありたい。そういう人を往生する人と、このように仰ごうではないか。このように聖人は語り、教えてくださっているように思われてくることでございます。
本日、ご参詣の皆さまには、信心が実現する涅槃道、それと往生道との関係をお考えいただければありがたいと存じます。初めに申しあげましたように途中で終わりましたから、またご縁があれば、「真宗の大綱(3)」で、浄土の功徳を身をもって生きていくということがどういうことであろうか、尋ねることができればありがたい、こう思いながら終えさせていただきます。ありがとうございました。

寺川 俊昭(てらかわ しゅんしょう)
「ともしび2007年3月号」より
親鸞聖人讃仰講演会(2006年11月27日)抄録

【今月の予定】


▼東本願寺日曜講演▼ ※聴講無料
時間 午前9時半~11時
会場 しんらん交流館 2階 大谷ホール
講話 12月4日「真宗保育の願い」
大谷大学准教授 冨岡 量秀 氏

 12月11日「濁世末代(じょくせまつだい)目足(もくそく)
大谷大学教授 ロバート・F・ローズ 氏

 12月18日「今、いのちがあなたを生きている」
岡崎教区守綱寺 渡邉 尚子 氏

 12月25日「よきひと親鸞聖人」
能登教区光琳寺 木越 祐馨 氏

▼高倉同朋の会▼
日時 12月14日(水)午後6時~8時半
場所 しんらん交流館 1階 すみれの間
講師 安冨 信哉(教学研究所所長)
内容 『唯信鈔』
会費 5,000円(9月~翌年7月・全10回)
   ※1回500円