乾ききった心に、情(こころ)のない言葉の暴力が突き刺さります
乾ききった心に、情(こころ)のない言葉の暴力が突き刺さります
人はともに敬い(した)しみ、憎しみ(ねた)んではならない

幼い子どもたちの生活環境は大きく変わりました。群れて遊ぶ姿も、公園でキャッチボールをする姿もあまり見られなくなりました。保育園の近くの公園も草が伸びるなんてことはありませんでした。小さな靴で毎日踏みつけられて伸びることはできません。上級生が幼い子どもたちを家来のように引き連れて遊んでいた時代は、嬉々(きき)とした輝きがありました。そこには人と人の(つな)がりと(ぬく)もりがありました。

そんな時代の幼い子どもたちの世界には、憎しみや(ねた)む心は無かったのです。無邪気に遊び、喧嘩をしても、次の日はまた何もなかったかのように遊んでいたのです。しかし今、人々は邪気に包まれて生活しているかのようです。このような社会の流れの中で、幼い子どもたちも、無邪気を失いかけているのではないでしょうか。

園児の口から「ぶっ殺すぞ」「お前なんか死ね」なんて言葉が出てくると、その言葉の前でオロオロしてしまいます。「ちょっと待って。今なんて言ったの」と聞き返したくもなります。乾ききった心に、(こころ)のない言葉の暴力が突き刺さります。

幼い子どもたちの心の中にまで忍び込んだ憎しみ嫉む心を、悲しむことすらできなくなった私たちがいます。少年が幼子の命を奪い、少女が少女の命を奪い、母がわが子の命を傷つけ奪う。孫は目の中に入れても痛くないと言っていたのに、孫の命をも奪う。こんな(にご)りの中で、そんな姿を1人(なげ)きて、たたずみ、語りかけておられる者在り。

3歳のAちゃんとのある日の会話です。

真剣な目でAちゃんは「先生、Aちゃん、リック(リュックサック)になりたか」と言いました。
「どうして」
「だって、Bちゃんにずっとおんぶしてもらいたかと」
「どうしておんぶしてもらいたいの」
「好きっちゃん」と。

無邪気で、素直な愛の告白です。

幼い子どもたちは、純な心で自分の情感をまっすぐ伝えます。
しかし私たちはと言えば、邪気なこころで語り、また邪気な私を忘れています。「あなたがいて、私がいた」のでした。しかし僑慢(きょうまん)な私は「私がいて、あなたがいる」と勘違いしていたのでした。恥ずかしいことですがどうもそこにすべての争いの原因があるようです。

親鸞(しんらん)さまは「邪見僑慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とわが身を悲しんでおられます。
邪見で僑慢(僑はみずからおごり、慢は他に対してたかぶること)こそが、他との関係性を自分勝手に解釈して、自他を傷つけ、苦しめていたのですね。この子が私を親にしてくださり、私を親に育ててくださっていたのでした。

今、苦界の海で、童心を取り戻す歩みこそ本来の人間に帰る道なのでしょう。人は響き合う関係を作りたいと本来願っているのでしょう。目の前の人に自然に声をかけ、その人の悲しみを自分の悲しみとすることこそ、(うやま)う情でしょう。他と響き合う、そこに親しみ敬う出会いが生まれるのです。

近藤 章(1943年生まれ。長崎県在住。長崎教区西心寺住職)

『今日のことば 2007年(12月)』
※『今日のことば2007年版』掲載時のまま記載しています。

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