道場から真宗寺院へ

民衆が法縁を結んだ辻堂や道場は、今日の寺院とはおよそかけ離れた構造物でありました。それがどうして今日の真宗寺院になったのか。少し尋ねてみましょう。

聖人が90歳で示寂されると、遺弟達はこれを延仁寺に葬送し、遺骨は鳥辺山の北大谷に収めました。その10年後の文永9(1272)年に遺骨は吉水の北に改葬されたと『親鸞伝絵』(以下、『伝絵』)が伝えています。そこは当時小野宮禅念と覚信尼の屋敷内で、永仁年間より大谷北地といわれていました。いまの知恩院の塔頭崇泰院のあたりに比定されています。聖人の廟所には、門弟たちの合力で「草堂」が建ち、顕智等門弟が造立した影像が安置されていました(『真宗史料集成』第1巻、再版,989頁~992頁所収、正安3〈1301〉年12月「唯善言上書」、延慶2〈1309〉年「青蓮院御教書」を参照)。

その「草堂」とはどれほどの規模、どんな様式のものか。『伝絵』廟堂創立段の図相をみますと、専修寺蔵本では六角堂があって、影像と墓碑が立っています。西本願寺蔵本では、六角堂内は墓碑しかありません。東本願寺蔵本は、六角堂内は影像だけしか描かれていません。はじめは遺骨と影像のほか、墓碑もあったものが、後に墓碑だけを撤去したものと思われます。このいわゆる草堂は、六角堂を中心に、四方に回廊があり、一方に門がついています。門弟たちが礼拝するのは、回廊または周囲の庭からであったように描かれていますので、草堂はいわば小さな厨子のようなものであったと考えられます。

屋敷地は、建治3(1277)年に覚信尼から諸国門弟中に寄進されていました。彼女の子孫が、敷地を売却あるいは担保にすることを憂えたのでした。その心配が貴重であったことを証明するような事件③も起りました。そして、この廟堂が建武3(1336)年に焼失するのです。建物は高田の専空や和田の寂静らが、暦応元(1338)11月に買得して復元しました。こんなこともあって、廟堂、祖像、敷地は自分たちの共有だという意識が、門弟たちの間に高まっていたことを注意しておきたいのです。

延慶3(1310)年、41歳の覚如が、懇望状を提出するまでして覚恵の後の本廟留守職になります。覚如は長子の存覚を義絶するなどの手段まで用いて、本廟を寺院にして、それを勅願所にすることで教団を統一し、国家の公認を取りつけようとしたのであります。この試みは成功しましたが、反面門弟たちの足は遠のいていきました。

真宗寺院の始源は、集落の小さな辻堂であり、廟堂であり、道場でありました。ところが南北朝以後、公家貴族的風潮の盛んとなった時代背景もあって、これらが寺院形態に変化しようとするのです。そのよい例が正中元(1324)年8月に落慶した興正寺(現在の仏光寺)や越中井波の瑞泉寺であります。寺院建立に結縁を求めた勧進帳が現存するので、その事情がよく分かります。そこには、寺院は深山に俗塵をへだてて、本尊の前で観念練行する場所で、そういう寺院建立に結縁することは、臨終十念に正念に住することに通ずるといってあります。宗祖聖人の教えには程遠いものです。

聖人滅後の教団には、いくつかの法流の勢力争いがあったように思われます。横曽根門徒、鹿島門徒、高田門徒などの争いです。『口伝鈔』などの伝える聖人の事績は、それを心得て見なければならないと思います。

『口伝鈔』の8番目に一切経校合④の話が出ています。武蔵の左衛門入道と屋戸やの入道という大名が、北条時氏に親鸞聖人を紹介したといってあります(聖典657頁)。親鸞聖人のご消息にも、京都大番役に上京したらしい武士が出ていますから、時氏に近い上級武士が直弟の中にいたことでしょうけれども、それにしてもあの話は一切経校合に重点があるのではなくて、幼い北条時頼(1227~63)が親鸞聖人に食い下がって、真宗の宗風を明らかにして感嘆したということがテーマなのでしょう。

北条時頼は時氏の子供で、幼名開寿丸、この話のとき嘉禎元(1235)年は9歳で、宗祖聖人は63歳ということになります。史実かどうかはわかりませんが、宗祖聖人も時頼の非凡さを評価しておられたといいたいのでしょう。時頼の生涯は37年、鎌倉武士は短命です。康元元(1256)年には30歳で出家していて、最明寺殿と呼ばれて各地を巡回したという伝説が残るほどの有能な執権だったようです。
一切経校合は親鸞聖人を幕府権力につなげたい人たちの牽強付会の説話でしょう。私のこれからお話する内容も、大同小異かもしれません。

重文の親鸞聖人木像

新潟県柏崎市三島町内の西照寺には、国指定重要文化財の親鸞聖人木像がございます。これは1961(昭和36)年6月に指定を受けたものですが、ほとんどの人に知られていません。像高82センチ、杉材、玉眼入り、布張り漆地彩色仕上げ。みごとなお姿です。丸い頭、わずかに右向きのお顔、眉を寄せ、口を結ばれています。衣の上に袈裟をかけ、数珠をつま繰ってお座りになっています。台座はなくなっていますが、間違いのない鎌倉時代のお木像です。

親鸞聖人のお姿だということがわかるのは、襟元の襟巻きです。禅宗ではこれを「帽子」と書いて「もうす」と読むそうです。昔のお説教で門徒の皆さんがよく知っている一休さんの歌、「襟巻きの暖かそうな黒坊主、こいつが法は天下一なり」と詠まれたのは、聖人のことです。白い襟巻きを巻いて座るお坊さんの肖像は、例外なく親鸞聖人と見てよい。なぜ白い襟巻きをしておられるのか。

これについては、近年,長野県塩尻市の万福寺佐々木正住職のご苦労がありまして、親鸞聖人が法然上人にお出遇いなさる前の六角堂参籠という重要な契機を偲ぶために、真宗寺院が余間に七高僧と並べて聖徳太子の御影をかけること、また冬場の百日参籠のご苦労を聖人像の白い襟巻きにあらわすことが聖人滅後の教団でも大切にされていて、六角堂の本尊救世観音、その垂迹聖徳太子のご恩を偲ぶ意味が込められているのだということが明らかになりました。

さて、それならどうして新潟県の西照寺にこのお木像が伝来するのか。お寺の伝えでは、西照寺の始まりは『親鸞聖人門侶交名牒』(以下、『交名牒』と略す)に聖人面授の高弟として名の見える「常陸国太田」(野田)住の「西念」に始まった長命寺といわれます。常陸国野田の長命寺は、西念が生まれた国である信濃国水内郡駒沢に移り、その長命寺から天文9(1540)年に水内郡柳原庄松城(現在の松代)に分寺したのが西照寺で、西照寺は慶長7(1602)年に越後国(新潟県)に移り、本願寺が東西に分かれたとき、教如に従ったのだといいます。

お木像は長命寺に伝えられてきていました。寺基が信濃国に移ったころ、西念の子覚念が伊勢国菊野に道場を開いてお木像を移した。それが戦国時代に、京都青蓮院の内、円静院に移っていたのを寛保3(1743)年に西照寺が譲り受けたという変遷をたどっています。
余談ですが、この西照寺の現住職は北原了義氏で、現代の真宗教学に大きな影響を与えた曽我量深門下の安田理深・松原祐善・北原重麿さんたちが興法学園をスタートさせたところであります。

『交名牒』を追う

もう1つ、『交名牒』と末寺の伝承と現存史料の事例を挙げておきましょう。岐阜教区の郡上踊りで有名な郡上八幡の安養寺。開基は佐々木高重。高重の父は名馬イケヅキで宇治川の先陣争いに名を残した佐々木高綱。その出自は鎌倉から室町時代に近江守護となった佐々木氏、紛れもない宇多天皇に始まる名門であります。鎌倉時代の佐々木氏は、一族で西国十余カ国の守護職を得、北条氏一門と並んで鎌倉幕府の有力な支柱でありました。鎌倉武士の惣領制の典型的な事例、すなわち末子が父祖の地を相続して勢力を伸長した一族であります。宗祖の子女たちに似ています。

これから申し上げるのは、佐々木姓を名のる住職がなくなられてのちに、入寺された楠祐淳氏から教えていただいたことです。お寺には独自の『佐々木氏系図』(以下、『系図』と略す)が伝わるそうです。

『平家物語』や『吾妻鏡』では、高綱は建久6(1195)年に高野山で出家して西入と号したとしますが、安養寺では法名を了智と伝えております。『吾妻鏡』では、後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)の後、院の近臣佐々木高重は罪を問われて斬られたと伝えておりますが、安養寺の伝える『系図』では、事故あって名を垣見左金吾と改め、嘉禄年中(1225~27年)に鎌倉で親鸞聖人の弟子となり、法名を西信といただき、近江に安要寺を建てた。文永5(1268)年に72歳で亡くなったというのです。どちらの伝えを信ずるか。

先ほども少し触れましたが、長野県松本市内に、大谷派正行寺があります。住職は佐々木剛正さん。このお寺が佐々木高綱(法名了智)の開基で、聖人の晩年の著書『弥陀如来名号徳』は了智の書写本で伝えられたものです。了智という人は、応長元(1311)年、57歳のときにこれを書写しました。彼が門徒へ示した「定」が同寺に残されています。「定」というのは『歎異抄』13章にいう道場の貼り文と同じようなものですから、了智も唯円と同じ頃の人ということになります。

同地本願寺派の正行寺には『四僧連座像』が伝わっています。4人の僧とは親鸞、法善、西仏、了智。法善は佐々木盛綱の法名といいます。了智が高綱。西仏は大夫房覚明といわれます。正行寺にはまだお参りしていないので実際は知りませんけれども、連座像には実如上人の裏書があるそうですから、南北朝から室町時代の光明本尊の類なのでしょう。『交名牒』に法善、了智の名は出ていますが、その由縁はわかりません。西信は『交名牒』の下総飯沼、横曽根の性信門徒9名中の8番目に出てきます。

こういう史料を読み合わせると、性信門下の西信が佐々木高重で、彼は近江国に安要寺を康元元(1256)年に開いた。善鸞事件などで信仰に疑義動揺をきたした人たちが、関東と京都を往来するうち西信の旧縁を頼って近江国に移り住み、覚如上人時代には安要寺など瓜生津門徒(現在の滋賀県東近江市瓜生津)を形成していたということになります。

さてその安要寺は、第6代仲淳のとき、蓮如上人の勧めで美濃に移ります。安要寺が蓮如上人の命で安養寺となったという伝えです。
『系図』には、

「仲淳は事故あって辞職し、舎弟円淳に譲って濃州に趣く。安八郡大ひろの庄に於いて一宇を建つ。時に本山第8世蓮如上人より改めて安養寺と賜う。」(傍点松本)

と書いてあるのです。兄が出身地を出て弟があとを継ぐのは、鎌倉武士の相続法でした。舎弟円淳の安養寺はどこか。滋賀県栗東市の安養寺の史料では、寛正の法難⑤以後の史料に出てくる同寺在住の幸子坊という人物の法名を善淳としています。ところが、円淳は善淳の誤伝で、いま郡上八幡の仲淳と近江国の幸子坊善淳は兄弟であったのかもしれません。

こんな風に、末寺の所伝をもう1度吟味していくと、案外な史実にたどり着けるかもしれません。親鸞聖人の御遠忌は2011(平成23)年。もうすぐです。末寺のご住職方、お寺の所伝を見直してくださいませんか。

注① この講演が終わってから、当日参会されたご婦人に、次のように教わりました。柳池中学は生徒の減少で現在は小中一貫教育の御池中学校と改称され、商業施設や老人保健施設なども入るビル様の体裁に変わったそうです。ビルの正面には、親鸞聖人御入滅の地の顕彰碑も保存されているということでした。
注② この譲状の裏端書に「わかさ殿申させ給へ ちくぜん」とあって、ちくぜんは恵信尼の名前と見られますが、津本陽さんは小説『弥陀の橋は』で、九条兼実の邸に勤仕していた女房筑前と比叡山の堂僧範宴との間に芽生えた慕情が、10数年のプラトニックラブを経て結婚に至るとみています。
注③ 親鸞聖人の孫の唯善が大谷の支配を企てて、覚恵・覚如父子と対立して争い、大谷廟堂を占領した事件。唯善事件ともいう。唯善は敗訴して、聖人の影像・遺骨を携えて東国へ下向した。
注④ 『口伝鈔』には、親鸞聖人が、北条時氏の書写した一切経が正確かどうかを校正する作業をしたとして、記されている。
注⑤ 大谷破却ともいう。寛正6(1465)年正月、比叡山の衆徒による大谷本願寺破却のこと。当時、本願寺は蓮如上人によって再興に向かっていたが、比叡山衆徒は無碍光流の邪義として武力をもって弾圧した。このため上人は大谷を退去し近江南部地方を転々とし、ついで越前吉崎へ移った。

松本 専成(まつもとせんじょう)
2006年12月3日 高倉会館日曜講演
(本稿は、当日の講演内容を講演者が加筆訂正したものです。)

【今月の予定】


▼東本願寺日曜講演▼ ※聴講無料
時間 午前9時半~11時
会場 しんらん交流館 2階 大谷ホール
講話 1月15日「念仏往生とふかく信じて」
大谷専修学院長 孤野 秀存 氏

 1月22日「佛法のそこ」
大垣教区寶光寺 林 憲淳 氏

 1月29日「この身を生きる」
長浜教区満立寺  黒田 進 氏

 
※1日、8日は休会いたします。