親鸞聖人にとっての宗祖

では、どこにその宗祖親鸞聖人というお方を見いだしたらいいのか。これは、私は非常に明解だと思うのです。親鸞聖人にとって、宗祖とはどういうお方であったのかということを尋ねればいいのです。親鸞聖人が宗祖として仰いだお方、法然上人をどういうお方として親鸞聖人が讃嘆されていらっしゃるのか。そこに視点を当てて確かめをしていくならば、必ず間違いのない宗祖像というものを、われわれに示してくださると思うのです。

法然上人に、親鸞聖人は生涯、帰依していくというかたちを取りますけれども、例えば『歎異抄』の第2条、これは非常に有名なお言葉であります。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(真宗聖典627頁)

金子大栄先生は、この一句は親鸞の自叙伝であるとおっしゃいました。親鸞という存在は、そういう仰せのなかに生きている存在です。

金子先生は真実の宗教とは、「生涯を尽くしても悔いることのない、ただ一句の言葉との出会いである」と、おっしゃいました。

自分の生涯を尽くしきっても後悔はないと言い切れるような、そういうただひとつの言葉、一句の言葉との出会い、金子大栄先生も、そこに思い浮かべておいでになったであろうというのが、『歎異抄』の第2条のお言葉ですし、同時に、親鸞聖人にとっての法然上人のお言葉です。その法然上人のお言葉1つのなかに、自分の生涯を尽くしていかれたお方が親鸞聖人であると。
そういう視点から申しますと、いろんなことが考えられます。

本師源空明仏教

もう1つ、非常に私は親鸞聖人のお書きもののなかで、宗祖という意味を、私たちに考えさせるのは「正信偈」です。それは『教行信証』の「行巻」の1番最後にあります。『教行信証』の「行巻」のなかに位置付けられた偈文です。それは、行ということの意味を親鸞聖人が明らかにしようとする1つの決定を、「三経七祖」の伝承のうえに見いだしていこうとして、それを歌い上げものです。

ところが、「正信偈」は、1つの独立の位置を持ってまいります。『尊号真像銘文』というお書きものの中では、「正信偈」は独立して

「和朝愚禿釈の親鸞が『正信偈』の文」(真宗聖典530頁)

と明示されています。だから、「正信偈」と標記されるところには、ここでは、浄土真宗における偈頌、ちょうど天親菩薩の「願生偈」、曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」のような位置付けがあります。

その「正信念仏偈」のなかに、「本師源空明仏教」というお言葉がございます。親鸞聖人は、「本師源空は仏教に明らかにして」という送り仮名を振っておいでになります。普通読むならば、「本師源空は仏教を明らかにして」と読むほうがわかりやすいのです。読みとしても間違いではないと思います。

ところが親鸞聖人は、わざわざそれを

「本師・源空は,仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ」(真宗聖典207頁)

とおっしゃっています。

「仏教に明らかに」、仏教に明らかであったということ、これは大きな問題でしょう。仏教とは何だということ、仏教に明らかであったのが、本師聖人とあがめる法然上人だったということです。とすると、それを受けて、「本師源空は仏教を明らかにした」と読んだら、どうなりますか。はっきりしていますのは、仏教に明らかなお方でなければ、仏教を明らかにすることはできないということです。そこで明らかにすることができた仏教を「浄土宗」と、法然上人はおっしゃるわけです。

それを、おそらく親鸞聖人は「正信念仏偈」のなかで、二重(にじゅう)読みをするようにして確かめておいでになるのでしょう。それは「本師源空明仏教」という一句の詩句でありますけれども、その詩の一句のなかに、法然上人のお仕事というものを非常にリアルに、われわれに教えてくださっているのです。

もったいないことでありますけれど、これを私が親鸞聖人を御開山と仰ぐとき、今の「正信偈」のお言葉をお借りして申しますならば、親鸞聖人というお方は、仏教に明らかなお方であったと私たちはうなずいていますかね。「いや、どうもはっきりしないことが多いじゃないか」と、なっていませんでしょうか。

そうすると、われわれは親鸞聖人を讃めたたえるだけではないのです。親鸞聖人のお仕事は仏教のなかで、どういう意味と、位置を持っているのだろうか、という話ではないのです。仏教のなかではなく、仏教そのものを明らかにするということが、親鸞聖人のお仕事である。

ですから浄土宗というお名前のもとに独立していく仏教でありますけれども、それは聖道門と並んで栄えていくという仏教ではないのです。仏教に明らかであれば、仏教に明らかでないものもはっきりするわけです。

つまり、聖道門仏教というものは、法然上人の浄土宗興行において、あるいは親鸞聖人のうなずきにおいて、仏教の本流ではないと考えられましたが、そこにとどまらず、詰めていくと仏教ではない、ということになるのです。
そういうことで、法然上人というお方のお仕事は、仏教に明らかであったがゆえに仏教を明らかにすることができた、それが浄土宗興行ということなのだと、親鸞聖人は押さえていこうとなさっているのであります。

逆縁教興

法然上人が浄土宗を建立なさったということについてのお確かめを、曽我量深先生が非常に厳しいかたちでなさったということがございます。昭和36年(1961)7月10日に富山の月愛苑というところでお話をなさった、そのお話の内容であります。

「逆縁教興」というお題を出しておいでになる(以下引用は『月愛』8号、昭和50年(1975)6月20日、月愛苑)。順縁ではなくて、逆縁が仏教を興すのだという題。

曽我先生には、「逆縁教興これ仏法不思議なり」というお言葉があります。

「本願の御文を見ると、一切衆生(いっさいしゅじょう)とか、(あるい)は十方衆生とかいうことがあります。こりゃまあ自分の手近な言葉で顕わしてですね、十方衆生というものは、つまりまあ庶民というものでしょう。
庶民、つまり一般的な庶民、権力とか、社会上の地位とか権力とか、財産の力とか、或は経済力とか、或は精神力とか、精神力、そういうような力のないもの、長い間、権力のある少数の権力者と、そういう者からしいたげられておった。
それに対してですね、又仏教の方も、それとこう調子を合わせておるようなものでありまして、仏教でも聖道門の方のおみのりというものは、(中略)世間の権力者と、そういうものが結合して、そして、庶民を奴隷のようにして」しまった。

こういう書き方です。このことはべつに、びっくりすることはないとお思いになるかもわかりませんけれど、私はびっくりするのです。こういうお言葉で、少なくとも本願に示されている十方衆生を確かめ直しておいでになる曽我量深という先生のなかに、何が生き生きと動いていたのだろうかということを、われわれは聞き取らないと、このお言葉はただ、ちょっと持っていって勝手に使いますと、これはずいぶん危険なお言葉になってしまうと思います。

「そういうカラクリのもとに成り立っておる教えというものは正しい仏法であるというわけにはゆかんわけでありましょう。(中略)そういうことがあって、それでまあ一般の民衆の願い、そういうものを双肩に荷ない、そしてまたこの仏の本願とそういうものを荷うて、そしてこの法然上人という方が日本の国に誕生して、そして選択本願の浄土宗をお建てなされた。これがまあその仏教の歴史においては、そういうことが二千年の間なかったので、法然上人にいたってはじめて独立した。いわゆる花も実もある所の浄土宗というものがはじめて世の中へ現われて来た」

とおっしゃっています。花も実もある、曽我先生らしいお言葉だと思います。

今までの仏教は、徒花ばかり咲かせていたのではないのか。だから、花だけあって実りがない、そういう仏教の徒花の歴史に対する決別、それが実は浄土宗興行ということであり、それをなし遂げたのが法然上人というお方であると、曽我先生はおっしゃっています。

それは単に仏教を明らかにしたという意味ではない。仏教に明らかでなかったら、見いだすことのできなかった具体的な仏教とは、花も実もある浄土宗として結実したのであって、それは決して1つの宗派が独立したということとは、まったく関係のないことだと、おっしゃろうとしているようであります。

こういう言葉は、曽我先生にしては、なかなか容易に口になされることではないのではないだろうかと思うと同時に、それを口になさったということには、それを口にしなければならないようなことを、曽我先生ご自身が見つめておいでになったから、口になさったのだろうと。しかも、そのことは、法然浄土宗の興行ということ以外には、ついに仏教2000年の歴史のなかに1度もなかったのです。

宗祖としての親鸞聖人というときに、どういうお方を、私たちは念頭に浮かべているのだろうかという問いを自分に突き付けてみたときに、親鸞聖人にとっての法然上人は、どういうお方であったのかということをお尋ねしていくことが1つの鏡になるのです。法然上人を宗祖として仰いで、一宗興行の大祖として仰いだ親鸞聖人のうなずきに、われわれがうなずくことができたとき初めて宗祖親鸞聖人という像が、見えてくるのです。

「宗祖としての親鸞」を明かす『恵信尼消息』

では、親鸞聖人のもとで教えを聞いた人々のなかで、もっとも具体的現実のなかから、宗祖としての親鸞聖人を明らかにしていく、必須欠くべからざる条件を、表現してくださったお方のお書きものというものはないのでしょうか。

その視点から言いますと『恵信尼書簡』こそ親鸞聖人を宗祖として仰ぐ視点というものを、私たちにはっきり示してくださっている。だから、『恵信尼書簡』は一編のお手紙類ではない。そうではなくて、お手紙というかたちをとおして、私たちに宗祖としての親鸞聖人を、この視点のもとで明らかにうなずいていけとお示しくださっているようなお聖教だと、私は申しあげたい。
ではどこに着目してかというと、そこだけ読んでみます。

昨年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候いぬ。何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う。(真宗聖典616頁)

とあります。
前年、弘長2年(1262)11月28日に、親鸞聖人が亡くなったということを、覚信尼さまが伝えてくるのですが、そのお手紙を見て、即座に何ごとかを恵信尼さまは感じ取って、それにご返事を出している。そのご返事が、このお手紙なのです。

この殿という呼び方が、私は素晴らしいと思うのです。こんにちの言葉のなかにありません。私のだんなさまという意味でもありましょうし、私が日常のなかでお敬いをする方ということが、殿という呼び掛けにこめられていると思います。

殿の御往生ということについては、今さら初めてのことのように、驚いて申しあげるようなことは何にもありませんというのが、書き出しなのです。ここから大事な問題は始まるわけです。

そして、それに続くようにして、「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、云々」という、いわゆる親鸞聖人の六角堂参籠ということが出てくるのです。

このところで、私が非常に感動をしてうなずいておりますことというのは、「殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う」と言い切って、突如として「山を出でて、六角堂に」となっていることです。これは関係ないような感じがいたしますが、つながっているのです。

六角堂参籠の前、親鸞聖人が何をなさっておいでになったか、気になりませんか。そこに、比叡山での親鸞聖人のご修行の姿を彷彿として見るわけです。親鸞聖人は何もおっしゃっていませんし、親鸞聖人がそのことをのちに伝えるということも、なさっておいでになりません。

そうすると、はっきり申しますと、親鸞聖人にとって比叡山での修学というものは、それ自体としてはほとんど無意味なのだということです。なぜ無意味かといったら、まさに先ほどの、曽我先生の「逆縁教興」を思い出すわけです。

親鸞聖人がここで見届けていらっしゃることは、比叡山の仏教は、もはや仏教という名には値しない、したがって、それが仏教と名乗る限りにおいて、仏教は明らかにならないということです。そこに立って、親鸞聖人は大きな課題のなかで生きる自分になっていった。

私はこの「山を出でて」というのが、非常に大事なお言葉だと思うのです。「山を下りて」ではないのです。2つを一緒にしておいでになる方がありますが、私はそうではないと思うのです。

「山を出でて」ということは、比叡山によって代表される、聖道門の仏教との決別を表現しているのだと思うのです。もはや聖道門の仏教のなかに、実のある仏道を見いだすことができないとうなずいたとき、山の仏教から決別するという、親鸞聖人がそこに生まれたわけです。

そこから、法然上人との出遇いに至るまでの95日の参籠、そして聖徳太子のご示現をたまわって、「後世の助からんずる縁にあいまいらせんと」、「降るにも照るにも、いかなる大事にも」とおっしゃっています。本当にそのなかを歩いて、おそらく法然上人のもとをお訪ねになったということだと思います。

初めから法然上人ということを念頭に置いて歩いておいでになったとは読めません。そうなのです。比叡山には、もはや仏教はないという1つの決着をつけたところから、ではどこに仏教はあるのであろうかというその歩みが、私は、六角堂参籠に至るあいだの親鸞聖人の歩みであったと思います。

ということを私があえて申しますのは,比叡山の仏教に代表される聖道仏教というものに対して、浄土の仏教というのは、修道者の立場として申しますならば、何かある意味では敗北者の宗教になってしまうのではないですか。とても修行がつらくてできない。学問をやっていっても、どうにもならない。それはどう考えようが、聖道の仏教というものは、そういうことを建て前としてやっているわけですから、それについていけないとなれば敗北でしょう。

しかし、あれは敗北者の嘆きの言葉ではないのだということを、はっきり親鸞聖人の歩みのなかに見いだしておいでになるのが恵信尼さまのお書きものです。

「山を出でて」というだけで、六角堂にこもったというところにつながっていくわけです。「山を出でて」という言葉だけで、聖道門の仏教との決別を示しているのではありませんか。

したがって、決別したことによって、仏教がもはやどこにもないのではないかという苦悶のなかで、真を求めて歩いていくとき、聖徳太子のお言葉に、「ああ、これだったな」とうなずいて、そして、法然上人をお訪ねした。

法然上人によって、「善き人にも悪しきにも、同じように,生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」というお教えをこうむって、その一筋でもって生きるようになったという親鸞聖人のお姿が、描かれている。

こういうお書きものが他にあったでしょうか。私は寡聞(かぶん)にして知りません。恵信尼さまが、そんな理屈をおっしゃっているわけではありませんが、『恵信尼消息』の冒頭のほんの数行、そこに親鸞聖人の独自の仏道開顕の根が押さえられているのです。

それ故『恵信尼消息』は、決して歴史研究の史料にとどまるものではないと感じられます。そうではなくて、それは私たちに宗祖としての親鸞を尋ねていく方向を、「山を出でて」という言葉に始まって、六角堂参籠、法然上人との出遇いをとおして明らかにしていますし、その生涯を、法然上人の教えのもとに生き切ると言い切っていく親鸞の誕生、ということを一挙に示してくださっている。

これは、『恵信尼消息』に私が、やっとたどり着いたところで、気の付いたことであります。ということで、今日はお話を終わらせていただきます。何か、残っているようで申しわけありません。

廣瀬 杲(ひろせ たかし)
「ともしび2007年5月号」より
2006年11月28日 親鸞聖人讃仰講演会抄録

【今月の予定】


▼東本願寺日曜講演▼ ※聴講無料
時間 午前9時半~11時
会場 しんらん交流館 2階 大谷ホール
講話 コチラをクリック(紹介ページに移動します)

▼高倉同朋の会▼
日時 2月15日(水)午後6時~8時半
場所 しんらん交流館 1階 すみれの間
講師 安冨 信哉(教学研究所所長)
内容 『唯信鈔』
会費 5,000円(9月~翌年7月・全10回)
   ※1回500円